パラフォトニュース
記事掲載日:2004/02/09

スレッジ健常者ライダー・黒澤宗男選手_010

アイススレッジホッケーの健常者ライダー・黒澤宗男選手(八戸バイキングス)

photo2004年ジャパンパラリンピックアイススレッジホッケー競技大会終了後、黒澤選手がアイススレッジホッケーの魅力について話してくれた。

 ― 黒澤選手は、本大会に出場した健常者ライダー3名のうちの1人として参加されましたが、障害者スポーツをやっている、という風に感じたことはありますか?

黒澤:「全く感じたことないよ。」

 ― なるほど。障害者スポーツと感じないようなスポーツであるにも関わらず、なぜ、健常者のライダーが少ないのですか?

黒澤:「知られていないのと 障害者スポーツというレッテルをメディアが作っているためだね。その結果、健常者が障害者をさまざまな目で見ていて「かわいそう」とか、「がんばるわね〜」 「がんばってね。応援してるから」などの声援は沢山頂くし、試乗会のような疑似体験はするけど、スポーツととして一緒には出来ない。というかやろうとしないね。」
 
 ― 良くも悪くもメディアの取り上げ方が重要ですね。ところで、黒澤さんがお感じになるスレッジの楽しさってなんですか?

黒澤:「障害者の人とやるから楽しいとかという問題ではなく 私の場合は中学時代にさかのぼります。小学校の時にすでに170cmを超えていた私は、中学に入るときには野球部 バレー部 バスケット部から誘いが来ていました。中学の入学式の日に 担任になった先生が「サッカー やらないか」と 入学式の前にすでに バスケットシューズを買ってしまっていた私に 言ってきたのです。3日間考えた結果、サッカーを選びました。
私の中学にはサッカー部がありませんでした。その中で、私は 3年間 すべての中体連に出場し 2年生の時には サッカー部創設2年目で 市内2位の実力まで達していました。
当時は 夏はサッカー(サッカーは通年ですが学校の放課後まで)そして 冬はスピードスケート(小学校の4年からやってました)。これは、一度家に帰ってから夜 7時過ぎごろから9時ごろまでです。というように スポーツに明け暮れた 中学時代でした。
八戸西高校にはサッカー部がありませんでした。中学時代にサッカーを完全燃焼した私にはサッカーに対しての未練はなくなんの迷いもなく ラグビー部に入部。ルールもまだと知らないうちに 春の大会に背番号15番をもらいました。(かなりの有望株だったようです。)でも 1年間の秋ぐらいに 腰を痛めドクターストップがかかり スポーツは終わってしまったのです。
 サッカーでチームプレーの楽しさを知り ラグビーで厳しさと苦しさを知りました。以来、 スポーツから遠ざかっていた私に 腰にそれ程負担をかけないというより 腰痛がまったくなくなっていた時に スレッジホッケーがやってきたのです。
スピード 迫力 テクニック。これは 障害者だけに やらせておくには もったいないですね。」

 ― 最後に、黒澤さんにとって、今後の課題点は何ですか?

黒澤:「障害者にとってはパラリンピックという目標があるけど、健常者の僕には単なる遊びにすぎないかも知れないということ。それと、一生懸命がんばっても結果がなかなかでない現実に対しての不安はいつもあるね。」


 ― スポーツには「競技規則」とか「ルール」といわれるものがある。これで規定されている以上、健常者向け、障害者向け、という区別はありえないと思っている。健常者が、スレッジだけではなく、チェアスキー、車いすバスケ、ボッチャだってやってもいいはず。それなのに、なぜ、一般スポーツとして広がらないだろうか?この点について黒澤選手は、メディアの取り上げ方に問題があると指摘していた。「障害者スポーツ = 障害者向けに新たに設けられたスポーツ」ではなく、「障害者と一緒に同じルールで楽しめるスポーツ」。アダプテットスポーツという言葉が、言葉だけでなく、実存レベルで社会に浸透するには、情報を発信する側である我々メディアが、障害者スポーツに対するパラダイムを大きく見直す必要があるはず。
スポーツには「ルール」が必要。「選手が守れるルール」を作ってスポーツをやればよい。でも、「哀れみ」「慈しみ」だけでは、スポーツにならないのだ。


【取材 理学療法士・関根弘和】 

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