●インタビューその1 〜XCスキーを楽しもう!〜
(2001年)1月17日
パラリンピック・ノルディックスキーチーム監督の荒井秀樹さんにお会いした。荒井さんは、江東区深川スポーツセンターの所長であり、国際知的障害者スポーツ連盟(INAS-FID)の技術委員もなさっている。
この日は、予定の30分をオーバーして、XCスキーの魅力や代表選手の紹介、そして今回参加が取りやめとなった知的障害(ID)クラスのことまで話してくださった。
― あさって(1月19日)旭川(障害者クロスカントリーフェスタ)まで取材に行かせていただきます。
代表選手が全員そろうのは、旭川が最後だと思いますよ。ジャパラ(2月15日〜新潟)にも、結団式(2月18日東京)にも、来ない選手が何人かいるので。
― 僕たちは先日、福島でSFL-Jを見てきたんですが、そういうレクリエーションと競技スポーツって、やっぱり違うんですか?
いや、基本的には同じですから。XCスキーっていうのは、北欧の生活の中で交通手段として始まったものだから、基本は冬の生活の一部なんですよね。だから僕らは障害を持っている方にも、XCスキーを冬の楽しみの1つとして取り入れてもらえればと思っています。
車椅子の方たちは、雪が降ると自由に外に出られないわけです。それって、考えただけでも滅入っちゃうじゃないですか。外に出て遊んだり買い物したりしたいんだけど、雪が降ると一歩も外に出られない。長田(弘幸)くんなどはね、そんなわけで「冬になるのがいやだ」って言っていたんだけど、長野パラリンピックの前にシットスキーと出会ってからは「早く雪が降らないかな」って言うようになったんですよ。
それって、XCスキーのとってもいいところでね。たとえば、ブナの森とか、白樺の森とかは、夏には車椅子では行けないんですよ。でも冬になって雪さえ降れば、シットスキーに履き替えて入っていくことができる。それで、森の音だとか雪の降る音だとかが聞けたり、運がよければウサギとか小動物の足跡も見れたりね。障害を持っている方も、普段僕らが接することのできない冬の自然を堪能できるんです。
僕らには、パラリンピックでメダルを獲るっていう大目標があるけれども、障害を持っている方にもXCスキーのすばらしさを広めていきたいというのが、もう1つの大きな目標なんですよ。
だから、旭川でもただ競技をやるのではなくて、初日には障害をもっている子供たちをいっぱい集めて、ウィンターゲームの楽しさを知ってもらおうという活動をするんです。こういう取り組みをパラリンピックまで50日を切った今でも行っているのは、XCスキーチームだけだと思いますよ。
― 未来のパラリンピック選手が生まれるかもしれませんね。
長野パラリンピックで、多くの方にXCスキーを知ってもらったおかげで、盲学校とか養護学校のスキー教室では、アルペンよりも「歩くスキー」が多くなったんですよ。
「歩くスキー」は自分のペースでできるし、転んでも痛くないですから。そして何よりもいいのはね、先生とかスタッフも一緒に遊べることなんです。アルペンだと、重い靴を履かせたり、リフトに乗せたりで大変なんです。よくギックリ腰になったという話を聞くけれども(笑)。でも歩くスキーはシューズも軽いし、板とストックさえあれば服はジャージでもいいわけだから、非常に簡単に取り組めるんです。そういった点をキャッチフレーズにして、もっともっと広めていきたいですね。
●その2 〜たくさんの人に支えられて〜
― バイアスロンは、日本では満足に練習できないと聞いたんですが。
オリンピックのバイアスロンも含めて、日本では法律の関係で十分に練習できなかったんですよ。
でもルール改正のおかげで、ブラインドに限っては、空気銃がビーム銃になったんです(ルール参照)。それをフィンランドから2台購入したので、ブラインドの選手たちは練習できるようになりました。
ただ、シットスキーと他の立位の選手たちは、銃を持っていなかったり、持っていても射撃場以外では撃てないから、なかなか大変ですよね。
― でも、長野でのメダル第1号は、小林深雪選手のバイアスロンでしたよね。
彼女は、音を聞き分けて的を得る能力がすごいんですよ。バイアスロンは数秒差の世界ですから、的を一発外すと1分のペナルティーが与えられるのは、とっても痛いんですけどね。
― 銃の指導は、どのようになさっているんですか?
自衛隊の方に教わっているんです。スキー関係者の中には、自衛隊に就職される方が結構多いんですよ。
また、伝田(寛)くんは銃の免許を持っていますから、自分で練習できるんです。彼は、ランニングをして心拍数を上げてから銃を撃つというトレーニングを繰り返していますよ。おかげで100発撃ってもほとんど外しませんからね。百発百中ですよ。
― じゃあ、バイアスロンに関しては、日本は不利なんですか?
そうかもしれませんね。外国の選手は、自分の銃を持っていますから。日本では銃をレンタルするので、自分の体に合わせるのが難しいんです。ただ、ブラインドは備え付けの銃を使うので、一応、条件は同じなんです。
― 今回、IDの選手が参加できなくなった(ルール参照)のには、みんながっかりされたでしょう。
昨年6月の時点では、長野で銀メダルを獲った安彦(あびこ)君、銅メダルの篠原君、そして石川県の西村君が代表に決まっていたんです。
西村君は、走力ではトップクラスなんですが、長野では捻挫をしてしまって出場できなかったんですよ。だから2大会連続で、悔しい思いをさせてしまったんです。本人は、4年後のトリノに向けて頑張ると言ってくれていますけど。
実は、IDの子たちがパラリンピックに出るのって、とても大変なんですよ。彼らは、流れ作業をするような工場のようなところで働く事が多いでしょう。だから、1人だけスキーのために仕事を抜けるってことが、なかなか難しいんです。
シドニーの時も「仕事を取るかパラリンピックを取るか、どっちかにしろ」と言われて、出場をあきらめた人が何人もいるんですよ。今は不景気だし、就職難ですからね。
― 頑張っている姿が、周りの人にも伝わればいいですね。仕事を持ちながら参加している選手がほとんどなわけですから。
そうですね。だから僕たちも「いろんな人に支えられてスキーが出来るんだから、必ずお礼を言うんだよ」といつも指導しています。
ヨーロッパではね、IDのスポーツ選手の多くは、スポーツセンターで清掃スタッフなどの職員として働いているんです。それなら、空いた時間にトレーニングできるじゃないですか。日本でも、そんなちょっとした工夫でね、トレーニングの環境は整えられると思うんです。
ロシアの取り組みも面白いですよ。
証券取引場のオーナーが、降り引き手数料のうち何%かを、知的障害者のスポーツ団体に寄付しているんです。
割合が決まっていますから、取引が多くなればスポンサー料も高くなるし、取引が少なければスポンサー料も安くなるというシステムなんです。
― 日本では、まだまだ企業の間で理解が進んでいませんから、スポンサーを見つけるのも大変でしょう。
今、こういう経済状況ですから、どこか大きなスポンサーを見つけて、お金を出してもらうのは不可能だと思うんですよ。オリンピック選手の所属チームでさえ廃部になってしまう時代ですから。
日本には、スポーツを文化として捉える見方が少ないですし、経済的に苦しくなった時に、最初に切られるのがスポーツなんですよ。
こういう発想は、たとえばヨーロッパにはないんです。たとえ宣伝効果がなくても、みんなが守っていきたい昔からのスポーツ・・・ポロだとか、たくさんあるでしょ?そういうものを、ずっと企業が応援しているんですよね。歴史が違うんだなぁって思いますよ。
●その3 〜ノルディック日本代表の歩み〜
― ところで、荒井さんはどういういきさつでノルディックの監督になったんですか?
8年前のリレハンメルが終わったころには、ノルディックの代表チームってなかったんです。そこで、長野に向けて強化しようってことになったんですが、XCスキーだけは、障害者スポーツセンターの中で指導できる人が誰もいなかったんです。
当時、僕はスキー連盟に所属していて、中高生にスキーを教えていたんですけれど、そんな時に厚生省(当時)の長野パラリンピック準備室から声がかかったんです。
そのときは、代表選手はもう決まっていて、僕はたまに教えに行けばいいのかなって思っていたんですけれども、「選手いないから集めてくれ」って言われて(笑)。とりあえず全国に呼びかけてみたら、60人くらいが手を上げてくれたんです。そこから、強化指定選手をしぼり込みました。
でも、XCスキーの競技経験がない人がほとんどでしたから、歩くことからのスタートでしたね。
それでも選手が足りなかったので、僕が全国に出かけて選手探しをしました。
伝田君も、最初はアルペンに出たがっていたんですが、僕がたまたま見た時にXCスキーのスケーティングの形が非常にできていたので、「一緒にやらないか」って言ったんです。
今、筑波大学3年生の新田君も、彼が中学生の頃、「片手のすごいスキーヤーがいる」という噂を聞いて、僕が岡山まで会いに言ったんです。でも、ご両親は「障害者として育ててきたつもりはないから」って最初は反対されたんですよ。それでも、パラリンピックで活躍する選手の写真やビデオを見せながら説得して、彼が高校1年の時に、代表チームに入る事を許していただいたんです。新田君は小さい頃からスキーをやっていますから、チームで最年少ながらリーダーシップを取ってくれていて、キャプテンみたいな存在です。
― 選手がそろってからは、どのような練習を?
選手が出そろったのが96年で、長野まで2年しかありまでんでした。そこで私たちが取った対策は、日大とか中央大とか、高校のスキー部などと一緒に合宿をやらせていただくという事だったんです。
そうする事で、学生たちからスキーの技術やチューンアップの方法、あるいは精神的な強さを学ぶ事ができました。学生たちの中にも将来先生になりたいとか、福祉の仕事をしたいという人が多かったので、役に立つ事も多かったと思いますよ。
― お互いに、相乗効果がはたらいたんですね。
学生たちにとって、全盲の人や、手足が不自由な人がスキーをするのを見るのは初めてだし、最初は信じられないわわけです。でもそういう姿を見る事で、「俺たちも頑張ろう」って思う部分が大きかったんですね。
― ソルトレークは、8年間の選手強化が問われる大会ですね。
8年前は「大きな国際大会に出る」ことが目標だったんですが、今はみんな世界でもシングル(ひと桁の順位)になりましたから、ソルトレークではメダルという夢を実現させてあげたいなと思います。ただ、海外も負けていませんからね。ヨーロッパはXCスキーの本場ですし、アメリカも地元開催という事で選手強化に力を入れている。そして今大会は、中国も初参加するんですよ。だから、そう簡単にはいかないと思います。
― 選手の中には、50代の方もいますが。
よく、そういう質問をされるんですけれども。確かに高橋(正充)さんにしろ、久保田(とし子)さんにしろ、僕らの考える限りではスポーツをする年齢のピークを過ぎているかもしれない。
でも、たとえば高橋さんにしたら、20代のときに視力を失って、それでも「何かできないだろうか」っていろいろ試してみて、スキーという自分に適したスポーツを見つけて、それを競技のレベルにまで高めるには、何年もかかるわけです。だから、肉体年齢だけをもって歳をとっているとかいう見方はしてほしくないですね。
そういう意味では、長田君などは今30代ですけれども、選手としては最盛期なんじゃないかな。
●その4 〜XCスキーはチームワークが大事〜
― XCスキーに限らず、パラリンピックの選手にとって一番大切なことって何でしょうか?
何よりも忘れてはいけないのは、自分1人の力だけじゃなくて、いろんな方がサポートしてくれて初めてレースに出られるってことだね。
それさえわかっていれば、あとはメダルを獲るのは選手ですから。僕らはそこまでの道筋をちゃんと示してあげられればいいと思っています。
― XCスキーは、一見すると個人競技に思えますが。
確かに、一斉に「ヨーイドン」じゃなくて、30秒毎のスタートですから、自分が何位なのか、調子がいいのか悪いのか、他の選手と比べる事が難しいんです。そういう意味では、自分1人との戦いでもあります。
でもね、彼らが使う板にしても、ストラクチャー(裏側にある細かい溝)の選定やワックスのテストのために、何人もの人が関わっているんです。それに僕たちコーチたちは、レース中数キロごとにコースに立って、選手の順位や前後との差を教えてあげるんですよ。15kmとか20kmのレースでも決着は数秒差で決まりますから、そういう細かい指示がとても重要なんです。選手も途中で気を抜く事ができません。そういう意味でXCスキーはチームプレーだし、スタッフと選手はF1のメカニックとドライバーのような関係ですね。
― ブラインドの方のガイドも大切ですよね。
彼らはスキーヤーの前を走りながら、声も出さなきゃいけないわけですから、相当の技術が要るんですよ。たとえば、下り坂のホールディングゾーン(ルール参照)では、選手の体をつかんでしまったらスピードが落ちますから、、選手にガイドのストックを持たせたり、ガイドが選手のストックを持ったりして、一気に下っていくんです。僕らでさえ少しミスをしてしまう坂やカーブでも、トップクラスになるとミスをしませんから。だから、特にB1クラス(ルール参照)のガイドは、世界でもステータスが高いんですよ。
― 日本には、B1クラスのガイドができる人は何人くらいいるんですか?
僕は、日本では(荒井幸治・大平紀男・小泉洋美の)3人しかいないと思っています。
彼らのほかにも、ガイドにはインターハイやインカレで活躍したスキーヤーが多いんですよ。
― なるほど…。ところで、長野大会が盛り上がったおかげで、パラリンピックに対する理解者は増えたと思うんですが、現在はどうですか?
長野のおかげで多くの人、特に子供たちが「パラリンピック」という名前を知ってくれた事が大きいと思います。僕らが小さい頃って、「パラリンピック」という名前は知っていても、それがどういうものかはわからなかったじゃないですか。でも今は、子供たちがパラリンピックに対して大変興味を持ってくれています。シドニー大会の時は、この深川スポーツセンターが近くの中学生たちといっしょに「君が伝えるパラリンピック展」を開きました。また、最近は高橋(正充)選手へのカンパを集めるために、北海道深川市の子供たちが駅前に立ってくれたりもしたんです。こういう活動は、長野以降すごく盛り上がってきていて、大変うれしく思っています。
― 今日は長い間ありがとうございました。大変な事もあるかと思いますが、ソルトレークではぜひいいレースを見せてください。
確かに、今は経済的に厳しいですけど、みんなで知恵を出し合えば、いくらでも活動できると思うんです。
たとえば、大企業からお金を出してもらうことはできなくても、いろんな所から道具や板を提供してもらうことはできるでしょう。実際に、プリントの失敗した板とか、オリンピック選手が一度使ったストックなどを、提供してもらっているんですよ。
ガイドが使うスピーカー(写真)にしても、ここに勤めている職員の手作りなんです。そうやって、ひとつひとつは小さくても、いろんなところに理解者を増やしていくほうが、将来的にはいいと思います。そういう方たちのためにも、ソルトレークではいいレースをしますよ。
------------------------------------------------------------------------
インタビューを終えて
お忙しい中を、2時間以上も話してくださった荒井監督に感謝です! 長くなりましたが、どれも有意義な内容なので、ほとんどすべてを掲載しました。
旭川では、日本代表選手が顔をそろえます。監督のお話からも、チームの雰囲気の良さが伝わってきます。乞うご期待です。
※この記事は、2001年1月17日のソルトレークパラリンピックを取材する大学生3人組による「追い風」コンテンツより再掲載しています。
現在の位置:ホーム > 記事目次 > 101人インタビュー > ノルディック・荒井監督_008(再)