香川県高松市出身。町のアイスホッケークラブチームに参加するなど、少年時代からアイスホッケーに親しんできた。中学卒業と同時に単身カナダへ渡り、現地の高校に入学。
ホッケーづくしの毎日をおくったあとアメリカの大学に進学し、さらに腕を磨く。しかしその後、靭帯を痛めて引退を決意。「思うように滑れないのが本当につらかった。自分の中の火が消えてしまった」と、リンクに別れを告げた。
アイススレッジホッケーの代表監督に就任したのは、ソルトレークパラリンピック終了後の2002年3月。以前から打診はあったものの、自分のやり方が理解されるのかどうかという不安もあった。だが世界という大きな舞台で闘う彼らの姿を前に、消えていたはずの自分の中の火が再燃したのがわかった。スレッジの日本代表は長野・ソルトレークの2大会で5位という成績をおさめている。さらに上を目指すにはどうすればいいのか、という大きな問題に、「アイスホッケーの戦略土台を採り入れること。それをスレッジに当てはめた考え方を徹底させること」と答えを出した。
アイスホッケーと同じようにやろうとしてもできないことがたくさんある。攻めが可能なエリアも違う。そこで“なぜできないのか”を選手自身に考えさせることで、具体的な問題をクローズアップし、スレッジに転換して対策を練る。これまでの“やっぱりうまくいかない”というジレンマや固定観念を捨てる努力をしろと選手を怒鳴る。
昨年11月、新体制の日本は長野・岡谷市でドイツと親善試合を行った。少しずつ選手の意識が変わってきたのを確認できたと同時に、まだ課題が山積みだと言っていた。
「パックへの集中力は大切だが、下ばかり向く傾向がある。相手がチェックに来ても冷静に周りを見てタイミングをずらす技術も身につけなければならない。何より、まだまだアタックに負けない体をつくる必要がある」
そして今回のジャパラ。ちょうどソルトレークパラから1年たっていた。この1年間の成果はどのくらいあったのだろうか。「体づくりはまだ足りない。ホッケーの戦略とセンスを持った欧米のチームと対等に闘うには、我々は3倍も4倍も努力をしなければいけない」。だが―――、と続けた。「チームとしてまとまりが出てきた。スピードにも磨きがかかった。これでハンドリングも上達したら、相手に驚異を与えられるレベルになるだろう」
トリノパラリンピックまであと3年という期間で、全体として「意識改革+スピード強化+体力づくり」「ポジションどり+戦略の習得」「実践」をモノにすることを目標に掲げている。もちろん最終的なゴールは、パラリンピックでの金メダルだ。
選手に「スレッジのプロ」になってほしいと言う中北監督。監督が描くビジョンが、3年後どのように花開くのか。日本が歩む道のりを見守っていきたい
【記事:荒木 美晴】
現在の位置:ホーム > 記事目次 > 101人インタビュー > アイススレッジ日本代表監督・中北浩仁監督(再)_004