ソルトレイクでID(知的障害)の競技を見られないと知ってから、ずっとこの分野に興味を持っていた。そもそも、彼らにスポーツなんかできるんだろうか…。個人スポーツならまだしも、サッカーなどのチームスポーツは、理解できないんじゃないか?理解した時点で、もう「知的障害者」ではなくなっているんじゃないか…?そんな素朴な疑問から、このIDスポーツ取材プロジェクトはスタートした。
8日の開幕戦、日本vsロシア。スタンドに座った僕をまず驚かせたのは、選手たちとの「近さ」だった。「サッカーなんて、テレビで見るほうが面白いに決まってる。どうせ会場で見たって、米粒ぐらいにしか見えないんだろ」。そんな僕の先入観は、すぐに壊れた。選手たちが、すぐ近くに見えるのである。ピッチとスタンドとの間に、陸上用のトラックがあるにもかかわらず。サッカーの本場、静岡県清水市出身のくせに、こんなことで驚くなんてお恥ずかしい(昔サッカー観戦したことはあるはずなんだけど…)。
そんな僕を次に驚かせたのは、サッカーの「競技としての」面白さだった。「サッカーなんて、しょせん運のスポーツ。実力の差なんてそう出ないんじゃないの」。そんな先入観も、もろくも崩れた。個人の技術だけでなく、組織的な動きや戦術のレベルが、各チーム明らかに違う。そしてその違いが、スコアになって現れるのだ。
「知的障害者の」サッカーを云々する前に、サッカーというスポーツの面白さを知ることができたのは、大きな収穫だった。それを教えてくれた選手たちに、「ありがとう」と言いたい。これからはできるだけ会場に足を運ぼう。
なぜ、知的障害者のサッカーでありながら、「競技としての」面白さを感じることができたのか…。「そんなの、選手の障害が軽いからだよ。IQが75に近い選手を集めてるんだろ」。そう言ってしまうのは簡単だし、それはそれで正しいと思う。だが、それだけではないとも思う。
「知的障害者」という言葉から、みんなは何をイメージするだろうか?
勉強が苦手でクラスの足手まといになる人、電車の中で何やらブツブツ言っている人、時として凶悪な犯罪を起こす「病質者」…そんな暗いイメージ、負のイメージしか、持っていないと思う。
でも、このW杯に参加した選手たちからは、そんな暗さはみじんも感じられなかった。それは、彼らが知的障害者としてふるまっているのではなく、あくまでサッカー選手、それも一国の代表選手としてプレーしていたからだ。そのことが競技としての面白さを感じさせた理由なのかもしれない。
…ここまで書いて、ひとつはっきりしたことがある。それは、彼らを「障害者」と名づけて、ひとくくりにしているのは、他でもない私たちだということだ。つまり、健常者と呼ばれている(というか、自分たちでそう呼んでいる)私たちが、彼らのことを「障害者」だと型にはめているにすぎない。社会がちゃんと機能するためには、そうするしかないのだろうか。それとも、誰かを自分たちより下に置かなければ、私たちは安心して暮らせないんだろうか?
8月25日、この日の決勝戦に集まった観客は、24670人。予想以上の数だ。その一人ひとりが、この試合を見てどう感じたんだろう。
イングランドとオランダの両チームは、「知的障害者」を感じさせないほどレベルの高いサッカーをくりひろげた。かと言って、プロのサッカーほど上手ではない。しかしスタンドの観客は、「知的障害者のサッカー」を見に来たはずである。このギャップをどう受け止めたのか?
「知的障害者なのに」スゴイ…。多くの人はそう感じたと思う。しかしそう感じさせることが、果たして「ノーマライゼーション」につながるのだろうか?これは、スペシャルオリンピックスとは対極にあるこの大会だからこそ感じる、違和感だと思う。
この違和感は結局、「障害とは何か」という疑問にたどり着く。結局いつもと同じ所にたどり着いてしまったけれど、この違和感がある限り、「障害をのりこえる」とか、「ノーマライゼーション」とかいう言葉を、簡単に口にはしたくない。「スゴイね、感動したね」で終わるよりも、それはずっと意味のあることだと思う。
・・・最後に、W杯に出場したチームの皆さん、取材に協力してくれた関係者の皆さんに、もう一度、「ありがとう」。
【望月浩平】
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※この記事は、2002年INAS-FIDサッカー世界選手権大会で取材したものを再掲載しています。