知的障害の競技がIPC(国際パラリンピック委員会)の正式種目としてパラリンピックに参加できるようになったのは、96年アトランタパラリンピックからで、初めてオリンピックと同じ参加が認められた。(92年バルセロナで、INASーFID(国際知的障害者スポーツ連盟)の提唱でマドリードで別途開催された大会はパラリンピックとして認められていない。)そして、冬季大会としては98年長野パラリンピックで初めて加わった。
しかし、2000年、シドニーパラリンピックのバスケットボールで、知的障害のクラスはスペインのチームの選手12人中10人が健常者だったことが発覚、世界的ニュースとなった。その選手のうちの1名が、スペインのジャーナリストであり、事件発覚は本人からの告白であったという。スペイン障害者スポーツ連盟の会長が責任を取り辞任、金メダルを剥奪された。しかし、それだけで事件の処理は終わらなかった。INASーFIDがIPCから組織的に資格を剥奪され、以降IPC大会への参加が見合せとなった。
その後、シドニーまでの出場選手についてINAS登録の資料の再提出が各出場国に求められ、再審査でロシアとブラジルが承認されず、ロシアの銀メダルも剥奪となったという。こうして、アトランタに始まり、シドニーで途絶えた「知的障害クラス」の競技環境だが、長野で初めて出場を果たし、その後も練習に励んだ選手にとって、どれほどの希望を奪うことになっただろう。
アテネパラリンピックの出場については、IPCとINASで合同委員会をつくり、そこで一人ひとりの選手データにより判断が行われることとなった。
2003年2月、INASーFIDの組織的な資格は回復したというが、クラス分けの基準判定が未整備としてアテネ出場は見合わせることが決定された。この決定にINAS側から異議が申し立てられ、アテネパラリンピックへは公開競技としての出場が認められることになった。
これまでパラリンピックで公開競技として出場した種目は、次回大会で正式種目として参加できる可能性が高い。しかし、知的障害の競技の場合、競技以前の問題として、各国での選手資格の基準というものがバラバラで、国際大会としての環境の整備が問われている現状である。このような中で、選手が競技に集中して取り組み、最高峰の大会であるパラリンピックへの正式な出場権を得るには、資格問題に対するINAS-FIDの考え方が非常に重要なものとなると想像できる。PWLスポーツ・文化振興協会の代表で、INAS-FIDアジア南太平洋委員会事務局長でもある箕輪一美さんは「健常の選手なら自ら主張できることが、知的障害の選手には苦手であって、周囲のサポートのありかたが大変重要」と言っている。
しかし、日本をはじめとする知的障害の競技大会の現状は、パラリンピック出場資格以前の大会運営上の課題を、まだまだ残している。競技としては、クラスごとのルールが公平でなければならない、ということも徹底されなければ競技大会としての意味がないはずである。現状はどうなっているだろうか。
16日(日)、日本へINAS本部より資格登録の担当者が来日し、連盟としての取り組みと現状、実際の資格登録について講演が行われる。この中で、知的障害におけるIPC加盟団体としてのこの問題に対する考え方が注目される。【2003.11.13 佐々木延江】