アイススレッジホッケー・永瀬充、日本代表活動を引退「これまでの10年、これからの10年」
旭川在住のパラリンピアンのひとりに、アイススレッジホッケーの永瀬充がいる。長野パラリンピック(1998年)にむけて選手活動を始めた。長野後「強くなりメダルをとりたい」と、ホッケーの本場カナダへホッケー留学した。旭川の人々との実際の交流は2004年ごろからになる。
「旭川をパラスポーツの街にしたい!」と、呼びかけた永瀬の声を旭川の人々はうけとめた。旭川での「パラスポーツの街づくり」が始まった。
旭川の街づくりのシンボルとして、日本代表ナンバーワン・ゴールキーパーとして、2010年バンクーバーパラリンピックでチームとともに、日本に、旭川に銀メダルをもたらした。
そんな永瀬が、支えてくれた人々の前で、日本代表引退を表明した。
長い選手活動で悩みながら、これまでの競技を続けてきた永瀬だが、進行性の障害により手の筋力の低下を自覚していた。
「世界で通用しない状況で続けても、未来はないと思う。10年後、札幌でも活躍するような人材を今から育てることが必要」と永瀬はいう。
バンクーバーパラリンピックで大きな功績を遺したあと、日本代表チームは主力選手が外れるなど、戦力は低下した。ソチパラリンピックへの出場も逃し、ファンの関心もはなれている現状だ。日本代表の活動が窮地に追い込まれていることを永瀬はわかっている。また、そんな中で同じ北海道ベアーズの須藤悟がつぎの試合のためのクラウドファウンディングで資金を集めを始めたが、永瀬は関わっていない。
永瀬は、あらたな夢をかかげた。
「この10年で、旭川では今回のような集いも開催されるような街になった。これからは、国際的なパラスポーツの街、パラスポーツで夢を持てる街として、さらに10年後の旭川を見据え、小さい子どもたちとのプロジェクトをすすめていきたい」と、あらためて呼びかけた。