2016年招致でオリンピアンとの絆が生まれた
東京では、2016年オリパラにむけて、2008年ごろから招致活動が始まった。河合と田口亜希(射撃)が招致委員として活動した。しかし当初の招致委員会の名称は「東京オリンピック招致委員会」だったという。当時のスポーツ行政は、オリンピックは文科省、パラリンピックは厚労省と所管がわかれていたため、行政の作成する資料には、パラリンピックの存在が描かれていなかった。
ちなみに、立候補していた他3都市(リオ、マドリッド、シカゴ)は「オリンピック・パラリンピック招致委員会」だった。東京だけが「オリンピック」で止まっていたのだ。2009年になってから、パラリンピックが追加された。
田口「ショックでしたね。IOCから評価委員会が視察にくるというときも、誰かパラリンピアンいないか?ということで、(JOCは)誰も知らないので、たまたまJPCと年賀状のやりとりがあった田口が声をかけられることになった。プレゼンの2〜3週間前に電話で呼び出されるなど、すべてがくっつけるような形で進められていた」
2016年招致は敗れはしたが、日本のスポーツにこのような気づきをもたらしたことが、パラリンピアンにとって大きなできごとだった。
2009年・最終プレゼンのコペンハーゲンで、河合・田口は、室伏広治、荒木田裕子、小谷 実可子らオリンピアンとの親睦を深めることができた。そこで、パラリンピックは遠征の費用もコーチも頭割りで自分たちで持っていたと話すと、オリンピアンは非常に驚いていた。そして、「いきなり組織(文科省・厚労省)を一緒にすることはできないが、一人一人一緒のアスリート。これからは一緒にスポーツを広めていこう」ということになり、以後はJOCのアスリート部会やJOCのイベントにパラリンピアンが呼ばれるようになった。河合は「嬉しく、ありがたかった」と当時の感情を振り返った。
オリパラ、コペンハーゲンのメンバーで交流が深まったことで、JOCのアスリート部会に冬の大日方、車いすバスケットボールの根木らも入っていくことになり、オリンピアンがパラスポーツへの理解を深める体験会がJISSで開催されたことで、車いすがはじめてJISSに入ることとなった。日本を代表するアスリート同士としての距離が縮まった。