関連カテゴリ: アルペンスキー, パラアイスホッケー, 周辺事情, 新着, 普及, 東京, 東京パラムーブメント, 水泳 — 公開: 2023年12月23日 at 4:10 AM — 更新: 2024年1月12日 at 11:03 AM

いま語られるあの頃の真実!日本パラリンピアンズ協会20周年トーク&交流イベント

知り・知らせるポイントを100文字で

98長野パラリンピックで海外パラリンピアンの振る舞いに刺激を受けたパラアイスホッケーの永瀬充が、パラリンピック選手としての意識向上への想いを宿し、賛同した河合純一、大日方邦子とともに選手会としての活動が始まった。以降日本のパラスポーツの競技環境の構築に大きく関わり貢献してきた。この20年の歩みのポイントが選手の言葉で語られた。

2016年招致でオリンピアンとの絆が生まれた

田口亜希(射撃)2016東京大会招致プレゼンで、コペンハーゲンへ行った時の思い出を語る。

東京では、2016年オリパラにむけて、2008年ごろから招致活動が始まった。河合と田口亜希(射撃)が招致委員として活動した。しかし当初の招致委員会の名称は「東京オリンピック招致委員会」だったという。当時のスポーツ行政は、オリンピックは文科省、パラリンピックは厚労省と所管がわかれていたため、行政の作成する資料には、パラリンピックの存在が描かれていなかった。
ちなみに、立候補していた他3都市(リオ、マドリッド、シカゴ)は「オリンピック・パラリンピック招致委員会」だった。東京だけが「オリンピック」で止まっていたのだ。2009年になってから、パラリンピックが追加された。

田口「ショックでしたね。IOCから評価委員会が視察にくるというときも、誰かパラリンピアンいないか?ということで、(JOCは)誰も知らないので、たまたまJPCと年賀状のやりとりがあった田口が声をかけられることになった。プレゼンの2〜3週間前に電話で呼び出されるなど、すべてがくっつけるような形で進められていた」

2016年招致は敗れはしたが、日本のスポーツにこのような気づきをもたらしたことが、パラリンピアンにとって大きなできごとだった。

2009年・最終プレゼンのコペンハーゲンで、河合・田口は、室伏広治、荒木田裕子、小谷 実可子らオリンピアンとの親睦を深めることができた。そこで、パラリンピックは遠征の費用もコーチも頭割りで自分たちで持っていたと話すと、オリンピアンは非常に驚いていた。そして、「いきなり組織(文科省・厚労省)を一緒にすることはできないが、一人一人一緒のアスリート。これからは一緒にスポーツを広めていこう」ということになり、以後はJOCのアスリート部会やJOCのイベントにパラリンピアンが呼ばれるようになった。河合は「嬉しく、ありがたかった」と当時の感情を振り返った。

オリパラ、コペンハーゲンのメンバーで交流が深まったことで、JOCのアスリート部会に冬の大日方、車いすバスケットボールの根木らも入っていくことになり、オリンピアンがパラスポーツへの理解を深める体験会がJISSで開催されたことで、車いすがはじめてJISSに入ることとなった。日本を代表するアスリート同士としての距離が縮まった。

<目次>
ゼロから1オリンピアンとの絆スポーツ行政への働きかけNTCイースト若手のパラリンピアンたち

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