関連カテゴリ: アルペンスキー, パラアイスホッケー, 周辺事情, 新着, 普及, 東京, 東京パラムーブメント, 水泳 — 公開: 2023年12月23日 at 4:10 AM — 更新: 2024年1月12日 at 11:03 AM

いま語られるあの頃の真実!日本パラリンピアンズ協会20周年トーク&交流イベント

知り・知らせるポイントを100文字で

98長野パラリンピックで海外パラリンピアンの振る舞いに刺激を受けたパラアイスホッケーの永瀬充が、パラリンピック選手としての意識向上への想いを宿し、賛同した河合純一、大日方邦子とともに選手会としての活動が始まった。以降日本のパラスポーツの競技環境の構築に大きく関わり貢献してきた。この20年の歩みのポイントが選手の言葉で語られた。

12月17日、東京都品川区の日本財団パラアリーナで、日本のパラリンピック出場選手の選手会である、日本パラリンピアンズ協会(以下、PAJ)の20周年を記念するイベント「PAJ20年の歩み、そして未来へ」が開催され、トークショーとパラスポーツ体験会に関係者、ボランティア、パラスポーツを継続して取材する記者やカメラマンが集まり、20年のあゆみに耳を傾けた。

12月17日、創成期について語る。左から、永瀬充、河合純一、大日方邦子 写真・筆者撮影

<目次>
・ゼロから1
オリンピアンとの絆
スポーツ行政への働きかけ
NTCイースト
若手のパラリンピアンたち

PAJはどのように設立されたのか

PAJの発足は2003年。パラアイスホッケーの永瀬充が98年長野パラリンピックで感じた日本と欧米のアスリート意識の違いに衝撃をうけたことがきっかけだった。
長野後ホッケーを学ぶためカナダに留学した永瀬は、帰国して2001年に、水泳の金メダリストで2000年シドニーパラリンピック日本選手団主将を務めた河合純一に会いに、河合の住む浜松を訪れた。

2004年アテネパラリンピック50m自由形で金メダルを獲得した河合純一 写真・吉村もと

河合「シドニーで主将を務めるまでは水泳のことだけだった。同い年の永瀬さんがきてくれて他の競技やパラリンピック全体のことを話し、考えた」
当時、オリンピック選手選考の問題で千葉すず(競泳の選考会で優勝したがオリンピックの選考を外された)の話題があった。同じような問題はパラにもあった。一人で声をあげるのは難しい。公平なあり方をパラでも訴える場がほしいと二人は語り合った。

2002年、つぎに永瀬はソルトレークパラリンピックの選手村で大日方邦子(アルペンスキー)に声をかけた。
大日方「永瀬さんからこの話があって、自分たちの発信をしないといけないと思った。長野パラリンピックが終わって、99年アルペンのワールドカップが始まった。長野までは金メダルのための、にわかづくりの代表チームだった。これからが本番で、海外遠征に行こうとしても100万円の遠征費がのしかかってくる。選手たちは厳しい状況に置かれていた。パラリンピックをもっと発信し続ける必要がある。アスリートのバラバラの声をひとつの声にまとめられたらと」そうして3人が揃い、2003年7月にPAJが発足した。

2010年バンクーバーパラリンピックでメダルを獲得した大日方邦子。フラワーセレモニーを終えて日本スタッフの元へ 写真・佐々木延江

永瀬「二人に声をかけたのは私の功績かな。直感だった。20年先はみえてなかったけど、二人には私よりも深いところをみていただいた」

仕事と競技の両立が当たり前で試行錯誤の日々

この頃、パラアスリートは仕事をしながら競技をするのが当たり前で、仕事と競技の両立が悩みだった。PAJを立ち上げたものの年1回の総会を開催するのがやっとだった。インターネットが普及し、メールやスカイプが使えるようになるなか、仲間も増えて情報交換は進んだ。

大日方「競技を続け、これ以上無理かもという弱音、がんばろうよというエネルギーが高い人、落ちてる人が集まって、なんでも話をした。スカイプもタダなのをいいことに喋っていた。恋バナもあった。結婚と仕事と競技。家族をつくっていく。選手選考のこれは違うんじゃないの、コーチをどう選ぶべきか。競技によって事情は違うけど、ちょっとずつ知恵を借りながらお互い話し合う。競技だけみてると自分の競技だけで視野が狭くなるのを広げてくれた」

河合「課題意識をもって、ダメなら、なんでダメなのか突き詰めて考えて、2004年から合宿でJISS(ナショナルトレーニングセンター。当時はパラリンピック日本代表は使用できなかった)を使えるようにした。水泳だけなんですが」

創成期の苦労を経験して「自分たちがどう困っているか」を数字でわかりやすく伝えようということで、第1回競技環境調査が行われた。2008年夏・冬の選手150人にアンケート調査を行った。谷(当時、佐藤)真海の提案だった。サントリーの上司と話す中で、データで声を上げていくことが必要という助言があった。

マスメディアの報道

河合「92年バルセロナの頃はテレビも、新聞も一行あればいい。95年ニュースステーション。98年長野は自国開催で毎日1時間放送された。2000年シドニーパラ閉会式の解説席に呼んでもらった。
2004年は大日方さんがNHKディレクターになり金メダルを取ったあとインタビューに呼んでもらった。選手の頑張りがついてきたのと、見ている方が慣れてきての発展だったと思う」

大日方「長野の時、一過性でチェアスキーで滑っている写真をスポーツ紙の1面で取り上げてもらったが、続くことはなかった。一方で忘れないでいてくれる人もいる」

永瀬「2006年トリノ大会でTBSテレビみのもんたさんの「朝ズバ」がとりあげてくれた。2010年バンクーバーパラリンピックでは、パラアイスホッケーが強豪カナダを破って、日本対アメリカでの決勝戦が行われることになり、急遽、NHKで生中継が決まった。日本では日曜日の深夜3時という時間でしたが、自分の地元の旭川では体育館でのパブリックビューイングを開催。たくさんの人が応援に集まってくれた」と、永瀬は振り返る。

2010年バンクーバーパラリンピック・パラアイスホッケーで銀メダルを獲得した日本チーム。 写真・中村 Manto 真人

永瀬の地元、旭川(北海道)は3人のパラアイスホッケー日本代表がバンクーバーに出場しており、旭川からの応援ツアーも現地を訪れていた。またノルディック日本代表の荒井秀樹監督も旭川の出身だった。パラスポーツを応援するコミュニティがパラリンピアンを中心に形成されつつあった。

大日方「自分は2000年シドニー、2004年アテネはNHKのディレクターとして伝える側にまわっていました。藤本聡選手(柔道)、根木慎志選手(車いすバスケットボール)など、アスリート同士で話し合い火をたくわえていた」

当初のNHKのパラリンピック報道は選手である大日方が当事者メディアとしてNHKを率いていた。NHKによる本格的なパラリンピックの中継は、2004年アテネ大会より12年後、東京2020開催が決まってからの2016年リオ大会になってからだ。

最初の10年とは

永瀬「0から1を産んだ。思いや希望以外に何もなかった。読めない中でこつこつやった」

大日方「エネルギーをもった人たちが集まって、わいわいガヤガヤ。いろんな人がサポートしてくれ学びの多い10年だった」

河合「2000年シドニーの閉会式で、これからオリとパラが一緒にうごくとなって、世界で国としての取り組みが加速するなかで、日本は取り残されていた。選手間の連携で踏みとどまっていた時期」

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