野沢温泉(長野県)で開催中の「2022パラアルペンスキージャパンカップ(特定非営利活動法人日本障害者スキー連盟主催)」は2日目(4月5日)を迎えた。本日も大回転(2戦目)が行われ、チェアスキーは北京メダリストの村岡桃佳(LW10-2・トヨタ自動車)、森井大輝(LW11・トヨタ自動車)が優勝した。
競技後、北京での功績を讃えつつメダリストの二人のシーズンを終える記者会見が行われた。
スタンディングクラスは、1日遅れで今日から参加した三澤拓(LW2)が優勝。北京パラ出場の青木大和(LW3)、高橋幸平(LW9-2)が続いた。
女子は昨日は北京の雪質の感覚が残っていたため1日目に失敗、挽回した本堂杏実が優勝。北京パラ初出場で健闘した神山則子(LW9-2)が転倒し負傷。レースへ復帰できなかった。
村岡、スキーと陸上、可能性と時間。悩むなかで見つけた「競い合うことの面白さ」
村岡の北京でのレースは、誰もが難度が高いと評しパラアルペンのレベルを引き上げたといわれるコースをわずかな練習期間で掌握し、ホスト国・中国の選手たちを差し置いて3つの金メダルを勝ち取ったものだった。コロナ禍で東京大会が1年延期となり、スキー練習との兼ね合いが村岡を悩ませたが「負けたくない」「速くなりたい」という気持ちが強い彼女はどちらもあきらめることはなかった。
「東京パラが終わって、初めは陸上の燃え尽き症候群みたいな期間もありましたが、すぐに気持ちを切り替えて少しずつスキーへの気持ちへ準備を合わせることができ、チームに合流し雪上に立った時、すごく楽しく、スキーが好きだ!と、心の底から感じた。陸上に挑戦していた時、スキーの練習がいやだと感じたシーズンもあり不安だったが、陸上への挑戦を終えて、あらためて雪上へ戻ってきたときスキーをすることが好きだと思った。コロナ禍の影響で十分な練習はできなかったし4年前とはマテリアルがガラッと変わっており、半年間で先輩方と相談しながら納得できるセッティングを作りあげることもできた」と振り返った。
また「パラリンピックは特別な舞台。スタートに立った時、すごい不安感、恐怖心が湧いてきたが、それは勝ちたいと思うから、その時は押しつぶされそうなくらい結果や他の選手との比較もあった」と告白し、残る野沢温泉での残り2日間については、「あらためていいレースだ。北京での自分が自分に課していたプレッシャーから解放されて、自分らしく、楽しさを思い出せるレースにしたい。結果によらず、自分らしい滑りをしたい」と、スキーを楽しみたい想いを語った。
大輝「4年で成長した中国選手に勇気をもらった。共に競い合う育成・強化を日本のチェアスキー文化に!」
森井は「コロナ禍で思うように体づくりもできない苦しい1年だったが、地元のジムでの触れ合いがモチベーションを作ってきた」という。また北京パラリンピックへのトレーニングについては「(日本チームのホームゲレンデの)今年の菅平高原は雪が多かったが、降ったばかりの雪は感触がいいが、実際のコースに行ったときの滑走性とは随分違うことに北京に行ってから苦しんだ。コロナ禍でテスト大会もなく海外遠征も限られ、バーン、世界との位置確認、まったくわからないで臨む、不安を抱えながらの大会は、初めてだった」と振り返った。
「北京で何よりも驚いたのはスキー場の規模の大きさ。ゴンドラで上がっていって、スキー場が見えた時、もう宇宙船に飛び込んでいくようだと思った。またリフトにのって最初のバーンにいったとき、ものすごい難度があると感じた。それがトレーニングバーンで、レースコースはさらに難しいところだった。”滑れるのかな、えらいところにきた・・!”と思った」と、北京のコースの印象を振り返った。大ベテランの森井自身が「史上最難関」と評したコースで、徐々に自分の中で限界を上げていき、滑降とスーパー大回転で銅メダルを取ることができた。
ーー北京での学びと課題について
「北京では、中国選手の技術系の滑りに感銘を覚えた。ゼロからスタートして実質4年であそこまでなっていることに力をもらった。強化と育成をどうしていくかが日本の課題、似ているようでけして同じではない。そこをどうしていくか、これから話し合っていくことになると思う。北京と違って、イタリアは現存するスキー場を使うことになる。今回全く情報が入ってこなかった状況とは異なり、4年間の間にコースに対しての経験をつけていくことはできるだろう」と4年間を見据えた。
ーー森井自身の今後への想い
「僕は彼ら(狩野亮、鈴木猛史)と一緒に滑りたい。同じ選手として一緒に滑って伝えたい。最終的に僕を超えていったときにトップレベルにいるということが重要。僕自身がチェアスキーを始めた時もその人を抜けばという指標が近くにあった。それがないとまたゼロになってしまう。新しい選手が入っても何もない。目の前に目標があったほうが間違いなく先にいきやすい。もし今猛史がいなくなって新しい選手をゼロから育てなければならないのは厳しい。(僕には)コーチとしての役割、世界レベルの指標の役割がある。また用具自体も進歩させることができれば、進化した分を(チームとして)生かすことができる。そこの部分では次世代の選手が苦労しなくてもいい。それが日本のチェアスキー文化となっていければ、僕は気持ちよく引退できるだろう。若い選手と戦って枠を争えるような存在になりたい」
ミックスゾーンから:ベテラン三澤拓が想う、これからのスタンディングクラスに必要なこと
「拓さんがくるとモチベーションも高まる」と立位の後輩、高橋幸平は昨日話していた。三澤拓にとっては難度の低いコースで初日のタイムラグを感じさせないダントツの速さで優勝した。
三澤の北京は、滑降14位、スーパーコンバインド11位、スーパー大回転そして得意の回転ではコースアウトし棄権という結果に終わった。
「北京を終え、初めて自分が一線を退くことを考えた。理由は、5回パラリンピックに出場しメダルに届かなかったこと。北京でメダルに届かなかった悔しさもあるが、こうして久々に雪上に立つとやはりレースは面白い」と、三澤は記者たちに語った。
北京では、コロナもあって自分の理想の練習はできなかった。今後は遠征へいくにもチームもコンパクトにし、普及と強化を分けることが必要。その上で健常者の技術を取り入れて、濃やかな技術指導をしていくことが必要。みんなでパラリンピック行こうじゃなく、勝てる選手での強化をやっていく、違う意見、違うアプローチを試して大きく変えないといけないんじゃないか」
この大会には、知的障害(IDクラス)の選手も参加。男子は金澤碧詩、女子は馬場圭美が優勝した。
(写真提供 日本障害者スキー連盟/堀切功)