「多様性」を掲げた東京2020パラリンピックの閉幕から3ヶ月が経過する週末の午後。閉会式のパフォーマンスに出演した小澤綾子が、スペイン遠征中の競泳・銀メダリスト富田宇宙にコール。東京パラにどうのぞんだか、終わった今、どうしているかを伝え合うオンライン講演会を開催した。
小澤の友人や東京パラで富田の名前を知る人々が参加。スポーツとアートの立場から、障害という共通点のある過去と東京パラ後の未来社会へつながる思いを伝えた。
二人の生い立ち、障害の受容と成長
二人はそれぞれ障害も違い、携わるテーマも異なるが共通点がある。幼少期の成長の過程でそれぞれの身体に起きた障害に悩み、深い絶望を経験した。そして、そこから自分を見つめ直して障害を受け入れ、人生の楽しさをみつけることができたことだ。
小澤綾子
小澤は千葉県出身。10歳のとき進行性の難病といわれる筋ジストロフィーを発症したが、原因不明のまま徐々に身体活動がしづらくなっていった。体育の授業についていけない、教師からもサボりとみなされるなど、スポーツに苦手意識が募った。
病院を転々としたすえ20歳のときやっと病名がわかり、医師から「10年後には車いす、その後は寝たきり」と告げられたが、原因がわかったことで救われた思いがしたという。その後一時は悩んだが、障害のある自分を受け入れることができるようになり、IT企業で人事担当、ライフワークではシンガーソングライターとして活動する。2017年から障害当事者のチャレンジをプロデュースする「ビヨンドガールズ」と命名された社会活動に参加している。
「自国開催のパラリンピック、すごく楽しみでした。仕事で大きなプロジェクトを任され、歌手として海外へもいき、東京コレクションでモデルとしてステージを歩いたり、東京シティドームでバンドデビューもしました。パラリンピックには絶対に関わりたいと思っていました。でも、正直、スポーツということで、ちょっと不安もあったんですけど・・」と小澤。
富田宇宙
富田は熊本育ち。「宇宙」と名付けられた運命を信じ、宇宙飛行士を夢見て真っ直ぐな幼少期を過ごし、水泳、勉強、遊びに取り組む子どもだった。高校2年の時、網膜色素変性症と診断され「いつか失明する」とわかると、「終わったな」と、投げやりな気持ちになり、学校を休み、引きこもった。絶望のなか宇宙飛行士も諦めようと考えていた。
そう考えていた富田だが、ある日、「僕は死にたいと思っていたが、死なないな?」と、気がついたという。アニメ見たりして、視力もまだあったし、落ち込んだけれど、死ぬほどじゃないと。徐々に気持ちが変わった。
「清水の舞台から飛び降りる、って言葉があるけど、人は生まれたら、いつかは死ぬ。一度、死んだと思って生きよう」と、死の淵から復活した。大学へ進学し、点字や競技ダンスを始めた。(見えない人も活躍できる)プログラミングを学んでシステムエンジニアとして就職。加えて「見えない富田がやっている、自分もやろう!」と、他者をモチベートもでき、リーダーにもなれた。ただ、この先、見えずに続けるのは難しい。
富田はパラリンピックを目指す水泳を始めた。そこで、木村敬一、鈴木孝幸、山田拓朗ら尊敬する仲間に出会った。「この人たちは、障害を生かして生きている!ここで活躍したい」と考えた。富田はさらに見えなくなったが、チャンスはそこからだった。2017年のクラス分けでエース木村敬一と同じ全盲クラスになったことで、木村のライバルになるという大きなチャンスを得たのだ。
コロナ禍で、東京パラの舞台へ
開催が危惧されながらも5550人が東京パラのセレモニーへ応募し、89人が選ばれたなかに小澤もいた。得意の歌ではなく、ドラム車いすの演奏役だったが、二つ返事だった。
「空いてますか?」もちろん、空いてます!、と。待ちに待った練習へのオファーは本番3か月前だった。
しかし、初めての練習会で「手の振りが小さい、大きく、早く」と言われ、小澤は苦手の身体を動かすところで、不安が膨らんでしまった。
そんなとき、ステージマネージャーの栗栖良依氏が「小澤さんにしかできないことが絶対にあるはずだから、見つけてみて!」と、アドバイスをくれ、その言葉がきっかけで再度スイッチが入った。
「みんなと同じようなドラムではなく、自分にしかできない表現を目指そう」と。練習、リハーサルと、小澤は鏡を見ながら、できる限り会社も休んで練習した。そして、あのステージに立つことができた。
「誰がなんの障害があるかわからないけど、みんな障害があってかっこいい。こういう世界を未来に作りたいと思った。幸せな時間だった」
史上初の延期が決まり、富田は、当初「これまでも厳しいなかで練習してきた。延期はトレーニングのチャンスだ」と、ポジティブに捉えることができていた。
しかし、感染対策の中で毎日同じメンバーで練習を続けるうち、気持ちが空っぽになった。五輪開催へ批判の声も高まり、富田も「こんな時に開催すべきか?出ても伝わらないじゃないか?」と、タイムも落ち、練習もできなくなり、出場したいと思わなくなった。
そんな富田に、応援の声が届く。
「開催は反対だけど、宇宙が頑張ってきたから、宇宙を応援したい」と。これには「自分が崩れても応えないといけない」と感じたという。
富田は、オリンピックを観て(聴いて)いた時、笑顔で大会を楽しんでいるオリンピアンを素敵だなと思った。これがヒントになった。
「こんな状況だから喜んでいいのかなというのもあったと思う。そういう中でワクワクしながら楽しんでいる。しかめっ面では勝てないだろう。実力をぶつける、アスリートはこうありたい」と。
1ヶ月前になって(テレビで応援してくれる)皆さんの前でパフォーマンスする気持ちに戻ることができたという。
大会が終わって
小澤は、3年前、車いすになってから「車いすの小澤綾子」と紹介されていた。今回(閉会式で)は、なんの紹介もされず、ただ、ただ、パフォーマンスをした。
それを見た人が「めちゃかっこよかった!」と言ってくれた。
富田は初めてのパラリンピックで4つの種目に出場、個人3種目でメダルを獲得した。
富田「結果とかどうでもいいと言ったら失礼だけど、素晴らしい機会に出場できたこと、皆さんにこれまでの感謝を伝えたい。社会にインパクトを伝えられた大満足の大会になりました」
小澤「今までいろんな国でやっていて、自分も障害持ってるのにパラリンピックは見なかった。正直いうと運動が苦手な私が東京パラ楽しめるのか?不安だった。始まってみたら、不安なんて嘘のよう、めちゃ楽しいし、かっこいい。宇宙さんが泣いてるのをみて、泣きました!」
富田「(前回の)リオ大会の頃はもう競泳やっていたので(テレビで)観ていましたが興味なかったんです。日体大の同じキャンパスからロンドン(2012年)に行ってメダルとっている選手もいたのに何もみてなかった。ダンスをやっていて、競泳はオリンピックも見なかった。今回、出場した僕自身が、一番感動している!(笑)」
小澤「日本が変わるきっかけになるからみてみて!って、誘う側だった自分が、実は(運動苦手で)不安だったし、一番自分が変わった!(笑)」
富田「メディアが素敵に映してくれた。セレモニーも評判よかった」
小澤「開会式でパラの方がめちゃよかったって報道があって。閉会式って4式典の最後という位置付けもあり、プレッシャーだった。開会式はストーリーが評価されましたが、ストーリーないし・・」
富田「無観客でしたが、スタンドが一杯だったら、どんなにすごいか。一瞬のために一番たくさんの人を一堂に集めることができるのがスポーツのイベントだ。陸上短距離走なんて、10秒ですよ、100メートル走。スポーツのパワーってすごいな、パラリンピックって最高だなって、開会式(の入場行進)で一人で泣いてた」
小澤「選手として出れるっていうそこじゃなく、スポーツの凄さに泣いていたとは!」
富田「実は、閉会式のパフォーマーにエントリーしてたんです。(ステージマネージャーの)栗栖さんに、競技に専念してくださいって言われて、かないませんでしたけど(笑)」
小澤「宇宙さん、アスリート、パフォーマーの両方の才能持っているってすごい。同じ障害者って括られるけど全然違う。でも、メダル狙う人はやっぱりメダルに専念してください。パフォーマーだって事前練習もあるんですよ」
富田「自分の持っている引き出しを精一杯に開けている。障害を持ってやると、目立てる。障害は、煩わしいけど、注目してもらえる」
小澤「(閉会式で)世界の舞台に立ったとき、私は吐きそうだった。ドラム役も嬉しかったし、練習してきたし、失敗できないし、発揮できるのか。元々緊張する方で緊張すると吐き気が止まらない。宇宙さんはどんな感じ?」
富田「ずっとメンタルトレーニングしてきた。バイオフィードバック・トレーニングと言って、脳波を測りながら自律神経をコントロールできるようにする練習をした。その効果で集中してるけど、周りが見えるようにして試合に集中して臨めるようにしていた」
小澤「感情が昂る瞬間があり、そうなると楽しくなる」
富田「小澤さんはランナーズハイみたいなものが自然にできているんじゃないかな」
小澤「宇宙さんは、支えてくれたみんなに感謝をして、自分が最高に楽しもうとしてくれた。今後はどうしたいですか?」
富田「僕らの周りは東京パラ見てる人多いけど、(障害者を)受け入れない、理解しない人のことも理解しないといけないと思っています。相手がどういうあり方、主義主張、同じ方向ではなくても気にならない、そういう状態を作っていけたらと思います」
小澤「いろんな可能性を使って、自分らしく楽しもうよってことでしょうか?」
富田「自分にとって不幸なことや幸せなことに、ラベルを貼らなくていいと思います。病気や障害があって不幸だと思って生きる人もいれば、ものともせず輝ける人もいる。それをいろんな面から伝えたい」
小澤「みんなが思ってる普通に合わせようとして苦しんでいる。障害者という言葉で伝えられる人たちの多様性を伝えていけたらと思います」
富田「(選手村で)ボランティアの人がいろんな車椅子や足のない人、腕のないといったいろいろな人がほとんどで、そっちのほうが当たり前な中に入ったことが大きな衝撃だったみたいです」
小澤「ボランティアの方って意識高い人多いと思うけど、つねに障害のある人が近くにいるわけではないですよね。どんな場所にもいるという状況を作れたらいいです」
富田「あと僕、今また宇宙へ行きたいと思っています。パラリンピックで努力して、見えないことを言い訳に諦めたくないという思いが強くなった。僕が宇宙に行けたら、みんなの力を拓くことができるんじゃないか。全人類のことで、スポーツを変えるどころの力じゃないと思う」
小澤「すごい!」
富田「一緒にいきましょう、一緒に宇宙で歌いましょう」
二人のトークは、障害者の誰々、車いすの・・というのではなく、ただ富田宇宙、小澤綾子という肩書きのない世界へいければ、と願いをこめて終了した。
※この記事は登壇した小澤綾子氏の呼びかけで講演会に参加した筆者が二人の対話のなかで印象にのこるやりとりを抜粋して掲載しています。
(校正・鈴木賀津彦)