7月31日から2日間、国体など複数の選考会を兼ねた長野県選手権に、東京2020パラリンピック日本代表がオープン参加した。
東京パラリンピックまで1ヶ月を切り、パラ代表のうち21名が、東御市のプールで合宿を行い、その成果を、長野県を地元に水泳に励む小学生から大学生までのスイマーたちと競いあった。これが、東京パラリンピックにむけた代表チーム最後の公式レースとなった。
大会最終日、木村敬一(全盲・東京ガス)はメインの100mバタフライ決勝を大会側の計らいでセンターレーンを一人で泳ぐことになった。与えられたその機会を生かしベストパフォーマンスへと自らを引き上げた。結果は1分2秒03と予選を上回るタイムを出し、見守る長野県のスイマーや競技関係者からの拍手が沸いた。
「予選から決勝に向けてしっかりと記録を上げることができ、自己ベストにはまだまだ届かないが、コロナ禍で帰国して一番いいタイムで泳ぐことができた。1秒台に入っておきたかったけど、この時期に満足のいく記録で泳ぐことができた。この1年、泳ぐたびに記録が悪くなって、そのたびに何とかなるでしょう、と自分に言い聞かせていた。自信がなかったが、やっと、舞台に立てる準備ができたと思えるレースになって、嬉しかった!」と、大会前ラストレースについて話した。
木村は、2019年9月の世界選手権(ロンドン)で東京パラリンピックへの出場が決まったが、その後のコロナ禍で練習拠点のアメリカから帰国した。アメリカのトップアスリートの指導者でもあるコーチのブライアン・レフラー氏とはオンラインでやりとり、慣れ親しんだ東京での環境も十分生かして練習を続けてきた。
「コーチとのやりとりは毎日オンラインでしています。記録が伸び悩んでいた時期もブライアンは次は大丈夫だ!と言い続けてくれていました。コーチって僕のタイムを上げるだけじゃなく、前向きにスタート台に立たせてくれることも役割なんだろうと思う。これで満足することはできないが、ひとまず、明るくなってきた!」
ーータッパー、スタッフは十分考慮されているか?
「何があっても僕がベストが出せるよう、信頼できるチームを作りあげてくれている。少しも心配はしていない」
木村をはじめとするパラ水泳日本代表選手たちのほとんどは、7月中はここ長野県で合宿してきた。日本の中枢である東京のNTC(ナショナルトレーニングセンター)は、8月1日、オリンピック競泳が終わり、明日からパラリンピックで使用できるようになる。
「オリンピック期間中のパラ選手の練習場所として、98年長野オリンピック・パラリンピックの開催地であり、国内唯一の高地トレーニングができる東御市湯の丸のプールを拠点にした」と、リオ、東京と2大会連続でパラリンピック日本選手団副団長を努める櫻井誠一さんは言う。
櫻井さんは神戸市職員時代にアジアパラリンピック(1989年/当時の名称はフェスピック)に向けて障害のあるスイマーの強化・普及のため「神戸楽泳会」を創設した。パラ水泳の強化と同時に普及の重要性を見据えてきた人物だ。楽泳会は老舗クラブチームとなり、日本代表として5大会目になる山田拓朗(NTTドコモ)などが幼少で水泳を始めたほか、数々のパラスイマーを輩出している。
今回、長野の水泳関係者の協力を得て健常のスイマーとパラスイマーの交流を実現しようと日本代表合宿と大会を準備した。兵庫以外では初めての試みが成功したといえるだろう。
ーーコロナ感染対策下でのパラリンピックへは?
女子50m背泳ぎ、200m自由形などに出場したベテランの成田真由美(横浜サクラ)は「今、手放しで、もう少しでパラリンピックだと喜べない状況がありますが、長野県水泳連盟の皆さまのお力を借り、このような大会を開催してくれたことに感謝しています。障害を持っている選手を見たときに、そこからまた障害者への理解を深めてもらい、同じスイマーと認めてもらえたら成果だと思います。私も予選では小学生と決勝では大学生と泳ぐことができました。ここにきた選手たちがパラリンピックを応援してくれるきっかけにもなったら、素晴らしいなと思います。ホテルの人も車いすへの配慮をしてくれ、98年からの気遣いの積み重ねがあると思いました」
今後は、東御市のプールでの練習をギリギリまで続ける選手、東京へ引き上げる選手など、それぞれの方針で練習を行い、8月19日より選手村へ入村する。
長野オリンピック・パラリンピックの会場にもなったアクアウイングにあらためて「インクルージブ」という言葉が広がった。
パラリンピックまであと23日となった。