記者会見後に参加した記者から多くの質問があがった。河合委員長のほか、JPC事務局長、JPSA(日本障がい者スポーツ協会)強化部長の井田朋宏氏が同席した。
<ビジョン;共生社会について>
ーーJPCのビジョンである「活力ある共生社会」については、「パラリンピックによる共生社会」ということが求められて求められきましたが、現在の進捗状況はどうでしょうか。パラアスリートが求め続けてきた部分で、選手の皆さんは社会変革の当事者だと思いますが(PARAPHOTO)
河合「この10年とても大きく進捗している。ナショナルトレーニングセンターイーストができたり、周辺もアクセシビリティ調査をし、より理想的な状態にしようとしている。変わってきていると感じています。その反面、さまざまな格差もあるという認識もあります。年齢であったり、興味のある層と無関心層との大きな開きがあります。東京都市部と地方との違いなどに問題を感じています。
今年の東京パラリンピックが、世界ではじめて2度目に行われる夏の大会ということをしっかりと伝えながら、当事者感をもって、皆さんとともに楽しんでもらえるような、大会にしていく、まさにビッグチャンスという認識をしております」
ーー井田さんが「多様性を受容すること=共生社会」といいましたが、河合さん個人の意見をきかせてください(NHK/後藤記者)
河合「よく子供たちにいうのは、『ともに良さを生かし会える社会=共生社会』といっています。ごちゃまぜの社会ということをいう人がいますが、どう混ざり合えばいいのかといったときに私がいうのは『ミックジュースでなくて、フルーツポンチ』といっています。
個性をすりつぶしてわからない状態でまざりあうのを共生社会と呼ぶのか?。そうではないと思っています。食感だとか、色だとか、味わいだとか。それぞれの良さ、個性を生かしつつもまざりあっていくような社会をつくる。これが共生社会につながっていく。誰一人取り残さない社会をつくるために、2020をどう生かすかであり、パラリンピアンたちを通じてどう発信していくかであり、どんなメッセージを届けるかが、我々の取り組まなければならないことかなと思っています。
ーーJPC委員長になられる河合さんご自身は「日本におけるパラリンピックムーブメント」とは、その特徴をどのように表現しますか(PARAPHOTO)
河合「社会を共生社会とか、持続可能でより良いものにしていこうと思っている人たち全てが当事者になりうるというところが、パラリンピックムーブメントの大きなポイントだと思っています。
まさに、(記者の)皆さん自身もそうですし、積極的に取材にきていただくことが当然情報発信につながり、読んでいただいたり、みていただいた方々が、心のなかで何か変化をおこす。ソーシャルメディアでいいねを押すとか、シェアするとか、家族でパラリンピックを語りあうとか。そういったところからが(ムーブメントの)第一歩かなと思っています。この夏を究極のピークにしながら、きっかけにできると思います。
よくレガシーという言葉が言われますが、今回のレガシーは人のなかに宿っていくだろうとおもいます。その人たちが今後も語り続けていったり、子どもたちにつたえていったり。その子どもたちが大人になり伝えていき、社会がよくなっていくとおもう。これまで以上に教育にも力をいれてムーブメントを図っていきたい」
<参考>
(日本障害者スポーツ協会HP;パラリンピックムーブメントに関する記述)
https://www.jsad.or.jp/paralympic/what/index.html
<2020東京でのメダル数>
ーーオリンピックは山下会長が金メダル30個と具体的で高い目標を掲げている。パラはどうでしょうか(共同通信/三木記者)
河合「具体的にお答えしたいですが、調整中です。まさに私自身がメダルをめざして取り組んできたものですから。それは険しく、難しい。苦しさもふくめて取り組んできました。現時点での発言は難しい。
ただ、選手が最高のパフォーマンスを発揮するということの先にメダルがありますので、選手がぶれずに取り組んでいくことをめざしていきたい」
井田「しかるべき時期に発表いたします」
<アスリートの経験を生かす>
ーー河合さんご自身、現役時代は競技に取り組んできた。なぜ、競技者からパラリンピックムーブメントに寄与されるようになったのですか?(朝日新聞/榊原記者)
河合「ありがとうございます。大きなきっかけはシドニーパラリンピックのときです。25歳3回目、社会人3年目。障害者のスポーツで若いぶるいだったが、主将をやった。それがきっかけです。それまでは自分のパフォーマンス、水泳で、チームでという意識で精一杯。ほかの競技は大会でしか接点なく、目を向ける意識はなかった。それが20年前、選手団全体を代表する立場になって、知らずに発言することの無責任さに気づきました。いまほどメディアにとりあげられてはいなかったが、そんな中でも、何名かは熱心に静岡に取材にきてくれた。(取材)対応するなかで、自分の経験やこれからのことを考え、自分のとりくみの姿勢にむき合うきっかけをもらいました。
そして、同じ思いをもった選手とPAJ(日本パラリンピアンズ協会)を立ち上げることになり、考えが強まりました。
言ったことは取り組むつもりです。批判だけするということはしない。しっかりと形のあるものにしていかないといけないです。2020年で自国開催の大会は終わりますけれども、スポーツやパラリンピックは、22年、24年、26年とその後もつづきますので、どうしていくか。考える立場と思っています」
ーー委員長になられましたが、これまで水泳に取り組まれて、水泳やパラスポーツに学んだものは何ですか(毎日新聞/芳賀記者)
河合「私は水泳ということもあり、いろんな障害に出会うことができた。水泳競技の特性と思う。競技によっては視覚障害のみとか、車いすのみとかということもあるが、水泳はプールで共通しながら取り組むことができた。世界の仲間とのつながりができたことはパラリンピックに出場できたおかげでとても良かった。
そして、「ハイパフォーマンスを最大化する、追求する姿勢に(障害のあるなしで)違いがないことに気づくことができた」ことは大きな学びであり、共有化していきたい。JPCの活動にも生かしていきたい。
ーー河合さんご自身はどうやって厳しさを練習をのりこえたのですか?(時事通信/木山記者)
河合「目標や夢を明確にもっていました。水泳で話してきましたが、できるか、できないかで悩んでも強くはなれない。どうなりたいのか、そのためにどうするのかに取り組むこと。自分は金メダルをとりたいとか。目標はわかりやすかった。4年というのは絶妙で、4年のなかで取り組む。毎年ではつらいかもしれない。ピークをあわせて取り組んでいくいい経験をさせてもらった。乗り越えたというより覚悟を持ちました」
ーーパラリンピック直前の交代ですが、アスリート出身委員長としてはパラアスリート全体で今できることは何ですか?(PARAPHOTO)
河合「選手たちこそが発信力です。メッセージを届ける力がある。私もこれまでも交流はありましたけど、今回JPC委員長となり、また皆さんとコミュニケーションとり、日本がめざしていきたいこと、方向性や世界に発信していきたいメッセージを統一しながら伝えていけると考えています」
<子どもへの教育>
ーーこれから子どもの教育ということですが、今年の東京パラリンピックが子どもたちにどういった大会になればいいと思いますか?また、どんな教育をパラリンピック以降もしていきたいですか?(朝日小学生新聞/前田記者)
河合「自分自身がもともと教員だったので教育は自分の思いのあるところです。パラリンピック教育は意義がある。I’m Possible(=IPC公認教材)は全国の小中学校で推進している。(I’m Possibleを)つうじて学んだ子どもたちが、親や先生、大人をまきこめる力になればと思う。
また、来週から(パラリンピックチケットの)二次募集があるが、お父さん、お母さん含め「夏の思い出」として観戦していただきたい。テレビやネットを通じてでもみていただきたいと思います。そこでの驚きが成長のタネになると思います。
何事もみてもらう。ふれてもらう。いま教材が学校にあるので、それで学んでいく環境をつくることです。
国も、バリアフリーの法律をすすめていきたいと考えていると聞いています。まさに誰もが暮らしやすい環境としてパラリンピックが貢献できること。
今の子供たちは10年後は大人。2030年にはその方々が社会の中心となってより良いものをつくっていくためのベースに(パラリンピックが)なっていきたい。これからも子供たちとのコミュニケーションには力をいれていきたい」
<参考>
IPC公認教材「I’m Possible」による授業のようす
<メダル、一般社会とのつながり>
ーーアスリートではない一般の障害者への影響は?(NHK/島中記者)
河合「アクセシビリティのガイドラインが整備されたり、見やすい観覧席がふえるとか、バリアフリーが交通インフラでも向上するなど、東京で開催される意味に思います。アスリートがより多くのメディアにとりあげてもらうことで、理解した上で、一人でも多くの人が、誰もが取り残されることのない社会のために発信していく。とかく障害のある方からするとパラリンピック選手に特別な能力があって・・と聞きますが、そうではなくて、大きな世界がもっとも注目するパラリンピックを通じて、日本国内はもちろん、世界に正しい情報を広めていくことが、我々、東京2020を開催する日本ということかなと思っています」
ーー金メダル、メダルの数。それがどういうふうに社会に価値を与えるのか(NHK/島中記者)
河合「自分も金メダルめざしてきたので、こだわるなというのはおかしい。メダル21個と言うと、良かったね、といわれます。しかし私は5回は勝ったけれど、それ以外は負けたんです。バルセロナで銀と銅もって帰りました。視覚に障害があってみえないと表彰式というのは1位の国の国歌を聞き続ける。自分が勝ったという実感は日本の国歌を流すことだと思いました。メダルは物にすぎない。それを獲るまでのプロセス、取り組みを通じて、メダリストになったあとの経験が本当に大切。メダリストを育てていくことが大事。多くのメダリストが増えていくことが大事。
メディアとして金メダルということでしょうけど、自分のベストのパフォーマンスがだせた結果がそれ以上の結果につながるとい思います」
ーーやっぱりメダルを獲るということが選手にとって大切。それが一般の社会にどう還元されるか(NHK/島中記者)
河合「それは、報道のみなさんの報道によるのでは。よりよい伝え方。あらためて世界の祭典、世界中のトップアスリートの皆さんとのなかでの勝負のなかでのようす、パフォーマンスを届けて欲しい。そのなかで出てきた感想やコメント、お礼、講演会もふくめて伝えていくことだと思います。
メダルをもったり、ふれたりした経験をした子どもたちは明らかに表情がちがうと思います。そういうことができるのはメダリストになったことがある人。皆さんにご協力いただきながら、自分も協力します。取り組めればと思います」
<格差について>
ーー東京パラリンピックにむけて、東京を中心に大きな環境整備がされています。地方も含めて日常的に障害のある方がスポーツに取り組むことについては(北海道新聞)
河合「格差があるという認識はあります。JPCとして何ができるか、検討が必要です。それぞれの都道府県の教育委員会、スポーツ部署と連携しながらすすめていくことかと思う。世界をめざしたいが、障害があるからスポーツできないということはなく、何ができるか考えたい。2020の大会を通じてまず、存在を知っていもらいたい。目指したいと思う子どもたちが増えることを目指します」
ーーパラリンピックが一般の社会につながっているからこそ価値があると思いますが、パラリンピックという頂点の方のメダルを支援することで、そうでない、頂点をめざすことができない人が取り残されてしまうんじゃないか?という懸念がいわれることがありますが、そういう意見について、河合さんはパラリンピックをどう説明しますか?(PARAPHOTO)
河合「メダルをとることが大切ではなく、選手たちが望んでいるのであればそれをサポートするのが大切だという認識であると思って欲しい。
やはりメダルによって(記者の)皆さんも、誰々選手がメダルをとったという記事を書きやすくなるし、それで報道量が増えるというのも事実だと思いますので、そういう意味においては、それはめざすべき方向性の一つであるということは間違いないと思っています。
ただ、だからといってそれ以外の価値を認めていないとかでは全くなく、まさに、障害のいろんな状態、パラリンピックに出場できないような障害のある方がいることも事実です。そういう方も含めて、誰も取り残さない社会をつくるためだと思います。でも、このパラリンピックっていうコンテンツがものすごい訴求力があるということは、多分皆さんも頷いていただけると思います。それを最大化することを通じて、社会変革を起こしていきます。変わっていくときには、何だかんだいって、どうしても凸凹が起こると思うんです。優先的にすすんでいくようなジャンルや分野もあれば、すこし遅れてしまうところもあると思う。全部、同じ速度ですすめていくことは難しいと思っています。
しかしすべてを考慮しながら見つつ、いま突き抜けるべき速度で、それをひきあげなければならないということもあると思っていますので、そこを理解していただけるような説明をこれからも丁寧にしていくべきかと思っています」
<どんなパラリンピックにしたいか、意気込み>
ーー2020という年、あらためてJPC委員長として、日本の歴史の中でのどんな・パラリンピックにしたいか、意気込みをきかせてください(NHK/中野記者)
河合「世界ではじめて2度目のパラを開催する都市、国。冬も含めると3回目になる。そういうなかで迎える2020年ですよね。
非常に選手たちはプレッシャーを感じつつ、そして、大きな声援をもらいながら本番を迎えられる。本当にめぐまれている。そういう意味でも本当に大きなターニングポイントになると思うんです。自分も20歳若ければ目指したい。
先ほども申し上げた通り、スポーツがここで終わるわけではなないし、通過点であり、その勢いで、その先1年2年3年10年先へ続けていく。その先よりよい社会をつくっていくためにどうしていくかという視点をもたなければならない。
あくまでもゴールであるとともにスタート。この2020終わったあとの道筋をおわるまでに示していく。それがとても重要。
(結果)5年10年してみないとわからないかもしれないが、このオリパラが2020年にあったからこそ、日本は変わったし、世界を変えられたと思われたい。2024年のパリや2028年のロスも、東京の先を行きたい、と思ってもらえるような大会をすること。我々に求められることだと思っています」