相手が“見えない”という難しさ
7月1日、関東パラ陸上競技選手権。2日目の1500m、400mに出場した佐藤友祈(WORLD AC/T52クラス)は、両種目で世界新記録をマークした。
「(風の影響が)酷かったです。レーサー(レース用車いす)の前輪も振られてしまって、レーンを維持することもしんどかったんです」と佐藤が語るように、トラックを周回する競技は無風が最適とも言われる中で、風が安定せず、「舞っている」状態。ベストコンディションとは言えない状況下、1500mでは約4秒(3分25秒08)、400m(55秒13)ではコンマ6秒、従来の世界記録を上回った。
16年のリオ・パラリンピックでは同種目で銀メダル。佐藤の前を行ったのは、レイモンド・マーティン(米国)。12年のロンドン・パラリンピックで4冠を達成した王者に、リオでも完勝を許した。そして昨年のロンドン世界選手権。自身が競技を始めるきっかけにもなったマーティンを“直接対決”で遂に打ち破る。次のステップは、同選手の持つ世界記録更新に照準を定めていた。しかし、記録更新を狙い、満を持して臨んだ5月〜6月のスイス遠征では不本意な結果に終わり、今大会を迎えていた。
会場の町田市立野津田競技場は、昨年も走って相性の良さを感じていた。「ここで出せなかったら、今年の世界記録更新は無理だろう」という意識のもと、スタートラインに並んだ。
まず、1500mに登場した佐藤は、独走状態の中で終盤まで勢いを絶やさない。フィニッシュ・ライン通過の瞬間は雄叫びを上げた。続く400mでは「疲弊しきっている中」での記録更新であった。両種目のインターバルは約1時間。自分自身と闘っていた。
「競う相手がいる場合は、メンタル的にもラクなんです。先にいる相手に、何センチという単位でも、ひと漕ぎ毎に近づいていくことができれば良い。でも、世界記録との闘いは、相手が見えないんです。そこが非常に難しかった」
減量と転換、そして解放
快記録には3つの布石があった。
ボディコントロール、スタート直後の加速法の変更、スピードメーターの排除である。
「今年に入ってから、順調に体重も落ちてきていて」と話す佐藤は、リオ時の77〜78キロと比較して、5〜6キロの減量に成功。スタート直後の加速を得意とするマーティンに対抗する為、苦手とするスタートの改善に継続的に取り組んできた佐藤にとって、軽量化は一つのテーマでもあった。
合わせて、“スタート直後の動作”にもひと工夫加えた。上述の「スタート改善」の一環として、トレーニングの段階から「最初からしっかり早く出る」ことを意識していたが、「無理に力を入れることで、途中で身体が固まってしまうという感覚があった」。そこで、初速から“リキを入れる”ことを思い切ってやめた。
代わりに取り入れた動作は「5発目からの加速」だった。
「スタートして、1、2、3、4、5漕ぎ目から一気に力を入れるイメージです。5回目までは、ゆっくりというか、自分のペースで出て良い。そんなアドバイスを貰って。結果として、中盤でトップスピードに乗った後、終盤も突っ込み切ることができている感覚です」
ースタートの早いマーティンを意識してやっていたトレーニングが実は、最適では無かった?
記者の質問に、「はい。それを今回、証明できたかなと思います。自分のペースで走れば良いんだ、という手応えもありましたね」と話した。
減量と転換。スタート・ダッシュの改善に取り組んできた佐藤にとって、一つの解が見えたレースでもあったようだ。
3つ目のスピードメーターの排除は、佐藤からチームの監督兼選手である松永仁志への提案でもあった。スイス遠征時までは欠かさずレーサーに装着していたスピードメーターを取り外し、時間と速度の確認から自身を解放してレースに臨んでいた。
「スイスで(メーターを)意識しすぎちゃって。それで、松永さんに、『関東では、出る種目全部メーター外して良いですか』という相談をして、『じゃあ、外してみようか』と。それが正解でした。向かい風だと、感覚的にも減速しているのが分かる。そこでメーターを見てしまうと、減速していることがはっきり分かってしまうので、心理的にもきつくなって、自分に見えないリミットをかけてしまう。(メーターを)外したことで、そのリミットがちょっと外れやすくなったのかな、と」
ホームストレートは向かい風が吹き、条件の芳しくなかった今回のレースにおいて、その判断が吉と出た。
死角の無い走力。みなぎる自信
実は昨年の時点で、T52クラスの400mと1500mは、パラリンピックの種目から除外される可能性が浮上していたが、見送られた。
とはいえ、「全然、800mでもいける自信はありますね」と佐藤が話すように、今回の1500mにおいて、800mの通過タイムが世界記録を上回っていたという。仮に、得意種目が無くなっていたとしても、ロングスプリント、ミドルディスタンスの領域において、佐藤は頂点に最も近い位置にいるといえる。
世界選手権で、ライバルを直接対決で下しての2冠、そして今回の世界新記録樹立。「名実ともに世界のトップでは」と聞くと、佐藤は言下に否定した。「パラリンピックのタイトルがまだ無いので」
課題もまだある。
「手首がどうしても弱いのですが、そこを強化するのは難しい。日頃のケアをしっかりして、手首に疲労を残さないことと、怪我とかでトレーニングに穴を開けないことを意識してやっていきたいと思います」
今シーズンの大舞台は、10月のアジアパラ競技大会。選出されれば、今月7日、8日のジャパンパラ陸上(群馬)、9月の日本選手権(香川)を経て、インドネシア・ジャカルタでの同大会が控える。
「国内だろうが、海外だろうが、誰にも負けるつもりはないです。400m、1500mでは、国内では常にトップを取り続けるし、海外でもトップをキープしていきたい。そこは、誰にも譲る気はないです。そうでなければ、東京で金メダルなんで口にできないです」
ミックスゾーンでインタビューに応える佐藤の表情と口調は、終始堂々としていた。
(校正・佐々木延江)