「悔しさしかない・・・」その声は、ひどく枯れていた。
5月24日から27日にかけて千葉市で行われた「2018ジャパンパラ ウィルチェアーラグビー競技大会」に、日本代表として出場した(2.5、Freedom/33番)。27日、日本が優勝したにもかかわらず、表彰式後のミックスゾーンで、そう感想を述べた。
初めて出場したジャパンパラ。予選リーグでは積極起用されていたにもかかわらず、イギリスとの決勝戦で出場機会がなかったからだ。
体温調節が難しい選手たちのために、空調で強く冷やされた会場。試合中、永易はタオルで体を温めながら、ベンチからチームで1番大きな声を出し続けた。
「チームとして何ができるかを考えた中で、声で貢献しようと思ったんです。スタンドの歓声の中でいっぱい声を出したら、潰れてしまいました」。その言葉と声に、出られなかった悔しさを力に変えようとした、永易の思いがにじみ出ていた。
ヘッドコーチ、ケビン・オアー氏が永易雄に与えた使命
日本は、今大会を「選手の成長の機会」と位置づけ、その狙いの1つを、「ミッドポインターの育成」としていた。
ハイポインターで主力の池透暢(3.0、Freedom/21番)、池崎大輔(3.0、北海道BigDippers/7番)、島川慎一(3.0、BLITZ/13番)の3人。今大会・予選リーグでは、ケビンはこの3人のいずれもコートに立たない時間帯をあえて作った。3人を休ませてパフォーマンスを上げるためだ。
そこで、予選リーグで活躍したのが、ミッドポインターの永易だった。狙いどおり長い腕を生かした高さで池を彷彿とさせる動きをした。
「2.5の僕が、3.0を同じような動きができると、ラインの選択肢がとても広がるんです」
しかし決勝では、53-46で勝利しても「15点差ほどつけたかった」とケビンヘッドコーチが口にするほど勝ちにこだわり、永易にチャンスは与えられなかった。彼にとってこの大会は、「まだ大事な試合で使ってもらえるほどの実力ではない」と、自覚する機会にもなった。
1番の課題となったのが、ランニングスピード。6月のカナダカップや8月の世界選手権に向けて、走り込みを強化する予定だ。
原動力は、「好きだ」という気持ち
現在31歳の永易は、中学3年の時に学校のプールに飛び込んで頚髄損傷の障害を持った。ウィルチェアーラグビーには2003年、車いすバスケットボール選手として遠征中のオーストラリアで出会い、競技歴は15年にも及ぶ。
北京パラリンピック日本代表(2008年)として選出されて以来、強化指定選手に選ばれはしたものの、パラリンピックへの代表活動からは遠ざかり、2012年のロンドン、2016年のリオはともに日本代表に召集されることはなかった。
その間、肩の脱臼の手術、心臓の不整脈を予防するための除細動器の手術も経ている。永易にとって「空白の10年間」でもあり、葛藤の連続だったという。
「腐っていたのかもしれない。正直、何回も辞めようと思った。日本選手権でも自分のチームを勝たせられないのだから、代表に呼ばれないのは当たり前ですけど、何をどう変えたらいいのかも分からなかった」
車いすを高くしたり、足の位置を変えたりと試行錯誤を繰り返し、結果の出ない日々が続いた。
そんな永易を変えたきっかけが、「シンプルに楽しもう」という気持ちだった。
「代表とか関係なく、とにかく楽しもうと思ったんです。車いすの高さも自分のやりやすい位置に戻して、走り込みを増やして、体重絞ってウエイトトレーニングをして・・・そうやって、目の前のことに没頭していたら、去年の秋にいきなり代表合宿に呼ばれたんです!」
代表に呼ばれたことで、モチベーションもさらに上がった。
「やっぱりラグビーが好きだなって、改めて思いましたね。好きだと、練習も”しなければいけない”ではなく”したい”と、思えるようになる。原点に立ち返ったことが、流れとしてコロコロとうまく(上に向かって)転がっていった感じです」。
ウィルチェアーラグビーは、「人生そのもの」
「ウィルチェアーラグビーに出会って人生が変わりました。楽しいことも、苦しいこともあるので、人生そのものですね」
人生という言葉に、彼の転んでは起きるコート上の姿が重なって見えた。
大切にしている言葉は「今の自分がベスト」。昨日より今日の自分、今日より明日の自分が成長している、と信じること。―――その成長の階段の先に見据えるのは、2020年の金メダルだ。
東京へ。12年ぶりのパラリンピックへ、永易の挑戦は続いてゆく。
(校正・佐々木延江)
この取材はニコンイメージングジャパンによる撮影機材協力により行われています。