フィニッシュ後、車椅子レーサーを漕いでいた左腕から血がにじんでいた。
「大丈夫です。走っていると擦れちゃうんです」
5月12日に行われた、ITU世界パラトライアスロンシリーズ横浜大会。PTWC(車いす)のクラスで優勝した土田和歌子(八千代工業)は、ミックスゾーンで心配する記者にそう答えてくれた。
傷が、車椅子ならではの過酷さを伺わせながらも、謙虚さを忘れない、土田の笑顔がまぶしかった。
「まだまだ上には上がいる。トライアスロンは自分の可能性を広げてくれるもの」と、土田は楽しそうに話す。43歳で新たな挑戦へと自分を進める土田の強さは、いったいどこから来るのだろうか。
転向による挑戦をかさねる土田の強さとは
土田は、パラリンピック金メダリスト、日本代表として20年以上に及ぶ競技生活のため「レジェンド」と呼ばれている。
「周りにそう見ていただけるのはありがたいですし、そこに恥じないように1日1日取り組んでいきたいと思っています。キャリアは長いと思うんですけど、競技転向してますし、自分の中では挑戦者だと思ってこの横浜大会に挑戦しました」
土田は、アイススレッジスピードスケートの選手としてリレハンメルパラリンピック(1994年)に出場した。長野パラリンピック(1998年)で2つの金メダルを獲得した。
その後、冬季競技からアイススレッジスピードスケートがなくなり、夏の陸上競技に転向。シドニーパラリンピック(2000年)に出場。続くアテネパラリンピック(2004年)では、陸上トラック5000メートルで金メダルを獲得した。トラック競技を経て、車椅子マラソンの国際大会でも数々の優勝を果たしている。
トライアスロン転向のきっかけは、2016年に出場したニューヨークシティマラソンのレース中に発症した、喘息が原因だった。
治療の一環としてはじめたのが、水泳。さらに、クロストレーニングの一環としてハンドサイクルを取り入れたことで自然とトライアスリートになる条件が整ったのだ。
土田は横浜大会2度目の出場だが、トライアスロンに正式に転向したのは今年1月のことである。今、人生7回目のパラリンピックを目指している。
「20年向き合ってきた陸上からの転向は、決断に少し時間ががかりました」という土田。しかし、チャレンジに年齢やキャリアは関係ない。
「思い立ったら何とか、じゃないですけど。自分に響くものがあって、やりたいという感情が芽生えたときに、チャレンジする気持があれば、何歳であってもいいのかなと思います」
幾度も壁を乗り越えた秘訣、土田の支えは
長く関わってきた陸上競技では、何度かレース中の事故に巻き込まれ、車椅子ごと転倒、肋骨や腰椎を骨折。北京パラリンピックでは2ヶ月の入院を強いられ、引退の2文字も頭をよぎった。
幾度となく立ちはだかる壁を乗り越えてきた。
「生きている限り前に進んでいきたいから」と土田はいう。そして、それは多くの応援やサポートに生かされていると。
いつも挑戦をあと押ししてくれるのは、夫と小学6年の息子との、家族の絆だった。
「息子が小さいころ、滑り台を一緒に滑ってあげられなくて、胸を痛めていたんです。でも、この間ちょうど当時の息子の日記が出てきて、”うちのお母さんは車いすなので滑り台が一緒にできなかった。でもすごく楽しかった”って書いてあったんです。見守れている、という意味では、出来る・出来ないということより、そこにいることができた。ともにいるということが大事なのかなと思います」と、息子とのエピソードを話してくれた。
この日も、その家族が応援に駆けつけていた。息子は、当日の朝「1番を獲ってほしい」という言葉をかけなかったという。いつもそれを願っていてくれるが、試合当日は母にプレッシャーをかけない息子の配慮があった。土田は、連勝という結果で家族の想いに応えることができた。
「胸張って”私はいいお母さんです”とは言えないかもしれないですけど、競技を両立する上で、息子ともしっかり向き合って、何か背中を見せられたら、私がやってきた活動を少しでも成長の肥やしにしてもらえたらなと思っています」と土田はいう。
座右の銘は、「逆境に耐えて咲く花こそ美しい」
「蓮の花をイメージした言葉なんですけど、蓮の花って泥水の濃度が高ければ高いほど、大輪を咲かすんです。苦しい困難を乗り越えるときに、自分の支えになった言葉なんです」
チャレンジ精神と謙虚な気持ちを忘れない、ミックスゾーンでの土田和歌子の姿が沼地に咲く蓮と重なった。
2年後、東京の地でも大輪の花を咲かせそうだ。
→次のページで土田和歌子の写真ギャラリー/リオパラリンピック・車椅子マラソンでの土田の写真も掲載
(校正・佐々木延江)