土田和歌子(八千代工業)は、43歳。アイアススレッジスピードスケートの選手として、リレハンメルパラリンピック(1994)からパラリンピックに出場、長野パラリンピック(1998)アイススレッジスピードスケート1000m、1500mで金メダル。車椅子陸上に転向して、シドニーパラリンピック(2000)に出場。アテネパラリンピック(2004)陸上トラック5000mで金メダルを獲得。次は、マラソンでのパラリンピック金メダルを狙っている。
歴史ある車いすのフルマラソンで、もっとも格式の高いとされる「大分国際車いすマラソン」で、土田は過去6回の優勝を果たしている。また海外の主要な車いすマラソン大会でも数々の優勝、常に世界トップクラスにいる。
今年5月13日に行われた横浜パラトライアスロンで、名実ともに話題をさらったのは、紛れもなく土田和歌子だ。
クロストレーニングで始めたトライアスロンだが、出場2回目となる横浜のレースで、課題のスイムの遅れを、バイク、ランで大きく巻き返し、挑戦者としてみごとな優勝を果たした。
「楽しかったです。スイムでは、とにかくまっすぐ泳ぐことを目指して泳ぎました。あとはバイクも不慣れでしたが、陸は気持ち的にすごく楽なので、気持ちよく漕げました」
13日のレースのあと土田は話していた。
6月19日、土田はコーチ陣とともに横浜大会の主催者でもある、林文子横浜市長を訪れた。
パラトライアスロンでの優勝の喜びと、大会を主催してくれたことへの感謝を伝えるためだ。
「ぜひ、来年も横浜で優勝してください。そして、会場は横浜ではありませんが、2020はパラリンピックもトライアスロンでお出になっていただきたいです」
林市長は歓迎と期待をこめて、ダイレクトに土田に質問をぶつけてくれた。土田はつぎのように答えた。
「今は、陸上選手として、秋のマラソンでの成果を出したいと思っています。ただ7月と9月にトライアスロンの大会に出場できる状況なら、挑戦してみたいと思っています。2020につながる競技にしていきたいと思っています」
陸上選手であり、現段階ではトライアスロンに転向することを決めたわけではない。ただ、トライアスロンが、眠っていた土田の別の領域を呼び覚ましつつあるのかもしれない。この1年は、東京への道を見極める重要な年になりそうだ。
歓談の中で、土田はよくアクシデントに見舞われる、という話になると、林市長は「土田選手は、不死身の女」と、讃えた。
日本のスポーツは、これまで、障害者のスポーツが健常者のスポーツと区別され、スポーツとしての位置付けが極めて低い状態にあった。土田のような、日本人パラリンピアンが世界と戦い続けることで、障害者アスリートの強さが築かれ、知られるようになった。このことは、障害のある人だけでなく、スポーツ、人間そのものの可能性を伝えている。
土田の日本における功績にはすでに計り知れないものがある。