関連カテゴリ: World Paratriathlon Series, コラム, トライアスロン, 周辺事情, 地域, 横浜 — 公開: 2017年6月2日 at 1:20 AM — 更新: 2021年5月29日 at 12:27 PM

メッセージ・フロム・リオ 〜Marcelo Colletより〜

10年をかけて、トライアスロンへ復帰/ロンドン、リオは代表権を得られず。理由は・・

2013年5月12日、横浜トライアスロン・パラトライアスロンでのマルセロ・コレット。750メートル10分台という水泳出身選手ならではの圧倒的なタイムでスイムアップした 写真・佐藤亮
2013年5月12日、横浜トライアスロン・パラトライアスロンでのマルセロ・コレット。750メートル10分台という水泳出身選手ならではの圧倒的なタイムでスイムアップした 写真・佐藤亮

その後、リオパラリンピックでトライアスロンが正式種目として選ばれた(2010年)と知り、2012年ロンドンパラリンピックをプール選手として最後の出場を目指し、その後はパラトライアスロンへの復帰を決意した。

しかし、海峡横断のために肉体改造、体重増加が影響して水泳のタイムは伸びなかった。また横断後の彼はプールに対する魅力が薄れてしまい、誠心誠意プールのトレーニングに打ち込めずにいたようだ。ロンドンパラリンピックの代表は派遣に必要なタイムまで3秒をきれずに逃した。

ロンドンパラリンピック出場を逃した翌日から、トライアスロンのトレーニングを開始していた。10年間トライアスロンから離れていたこと、自分の体質に合わせたトレーニングが必要なことなど、全てが最初からのやり直しだった。そして、いざ転身となると、今まで人生をスポーツに捧げ、これから先もスポーツ、パラトライアスロンに捧げ、生計がたてられるのか?という不安や恐怖心におそわれ、悩むこともあったという。

ともかく、コーチのファビオ・キューバ氏と共に本格的にトレーニングを開始。徐々に力を発揮。努力の甲斐あって、2012年に世界トライアスロンシリーズ・パラトライアスロンの出場が決まった。世界のトップ選手達と上位を争えると確信した。

2013年のシーズンが終わる頃はパラトライアスロン世界ランキングで2位、常に上位5位以内で、「このまま頑張れば、リオパラリンピック出場も夢ではない」と考えていた。

2013年5月12日、横浜トライアスロン、パラトライアスロン表彰式。優勝したマルセロ・コレット
2013年5月12日、横浜トライアスロン、パラトライアスロン表彰式。優勝したマルセロ・コレット 写真・佐々木延江

しかし、2014年にパラトライアスロンのクラス変更が行われると、コレットの順位は世界ランク11位前後となってしまった。近いうちにまたクラスの見直しを行うという情報が流れ、それがリオパラリンピック前に行われることを願ったが、新しいクラスが確定したのはリオが終わってからだった。最後まで希望を捨てず、諦めることはなかったが、残念ながら夢は叶わなかった。リオ前の昨年の横浜大会、そしてリオで行われたテストイベントでも同じく10位と悔しい結果だった。

クラス分けのこともあったが、昨年ずっと励ましてくれていたコレットの母が亡くなり、モチベーションが下がりっぱなしだったという。
それでも、リオに行きたかったが、集中できず、いつもの力が発揮できなかった。代表になれず、リオパラリンピックの中継を家で観ていた。トライアスロンのトップの選手のインタビューは放送されたが、パラリンピックのトライアスロンの中継はなかったという。

「とても悔しくて、悲しくて、そして腹立たしかった」と、胸の内を話してくれた。

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東京への意気込み

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