10年をかけて、トライアスロンへ復帰/ロンドン、リオは代表権を得られず。理由は・・
その後、リオパラリンピックでトライアスロンが正式種目として選ばれた(2010年)と知り、2012年ロンドンパラリンピックをプール選手として最後の出場を目指し、その後はパラトライアスロンへの復帰を決意した。
しかし、海峡横断のために肉体改造、体重増加が影響して水泳のタイムは伸びなかった。また横断後の彼はプールに対する魅力が薄れてしまい、誠心誠意プールのトレーニングに打ち込めずにいたようだ。ロンドンパラリンピックの代表は派遣に必要なタイムまで3秒をきれずに逃した。
ロンドンパラリンピック出場を逃した翌日から、トライアスロンのトレーニングを開始していた。10年間トライアスロンから離れていたこと、自分の体質に合わせたトレーニングが必要なことなど、全てが最初からのやり直しだった。そして、いざ転身となると、今まで人生をスポーツに捧げ、これから先もスポーツ、パラトライアスロンに捧げ、生計がたてられるのか?という不安や恐怖心におそわれ、悩むこともあったという。
ともかく、コーチのファビオ・キューバ氏と共に本格的にトレーニングを開始。徐々に力を発揮。努力の甲斐あって、2012年に世界トライアスロンシリーズ・パラトライアスロンの出場が決まった。世界のトップ選手達と上位を争えると確信した。
2013年のシーズンが終わる頃はパラトライアスロン世界ランキングで2位、常に上位5位以内で、「このまま頑張れば、リオパラリンピック出場も夢ではない」と考えていた。
しかし、2014年にパラトライアスロンのクラス変更が行われると、コレットの順位は世界ランク11位前後となってしまった。近いうちにまたクラスの見直しを行うという情報が流れ、それがリオパラリンピック前に行われることを願ったが、新しいクラスが確定したのはリオが終わってからだった。最後まで希望を捨てず、諦めることはなかったが、残念ながら夢は叶わなかった。リオ前の昨年の横浜大会、そしてリオで行われたテストイベントでも同じく10位と悔しい結果だった。
クラス分けのこともあったが、昨年ずっと励ましてくれていたコレットの母が亡くなり、モチベーションが下がりっぱなしだったという。
それでも、リオに行きたかったが、集中できず、いつもの力が発揮できなかった。代表になれず、リオパラリンピックの中継を家で観ていた。トライアスロンのトップの選手のインタビューは放送されたが、パラリンピックのトライアスロンの中継はなかったという。
「とても悔しくて、悲しくて、そして腹立たしかった」と、胸の内を話してくれた。
→ 東京への意気込み