水泳で、パラリンピック・アスリートに
そんな中、2001年にブラジルの港湾都市・レシフェで開催される障害者水泳大会出場の招待状が届いた。
「その頃の僕は、障害者のスポーツは社会復帰や順応のためであり、真剣勝負とは程遠いものだと思っていた。興味が湧かず、参加意欲はなかったけど、旅費など出費全額を主催者側が負担するというので参加した」
しかし、行ってみると、そこには高いパフォーマンスを披露すべく、鍛え抜かれた肉体の選手ばかりだった。とくにカナダ代表の選手達は「まるで怪物のように見えた。レベルの高さに驚き、圧倒された」と、素直に受けた印象の変化を話してくれた。
この大会がきっかけとなり、コレットは2004年アテネパラリンピック出場を目指すことにした。持久戦が得意だったコレットは、400メートル自由形のブラジル代表選手に選ばれた。
「レシフェの水泳大会に参加していなければ、アテネパラリンピックには行けなかっただろう。パラリンピック会場に入場したときの観客の声援に圧倒された。自分がそこに立っていることが最高に感動的で、今までの努力が報われた瞬間だった」
コレットは続く北京パラリンピック(2008年)も400メートル自由形で出場。前回と同じく決勝には進出できたが、メダルに手が届かなかった。負けず嫌いのコレットには「屈辱的だった」という。
→モラトリアムをチャネルスイマーとなって乗り越えた